このとき買った「沖縄戦 集団自決を生きる」という写真集を観た感想を
一年たった6月に、ようやく書いたら、
たくさんたくさん反響をいただいて、
では続きも、と、すぐ書いたのですが、
一回目同様、内容が悲しくて
投稿できないままでした。
終戦記念日の今日なら、と、慰霊の気持ちで、思い切っての投稿です。
しんどい証言をしてくれた人は、
きっと、聞いてほしいと思っているだろうから。
読んでいただければ幸いです。
沖縄戦、最後になにがあったのか、
証言より。
宮原はるこさん(81歳)・・・2009年当時、のお話。
(証言途中から)
1945年3月25日、
壕に、家族・親戚30人が避難した。
そこに、村の助役で兵事主任と防衛隊長を兼任していた、兄の盛秀が戻ってきた。
※防衛隊・・・民間人が軍に協力するために作られていた組織?
兄はお父さんに
「明日は艦砲射撃が始まって敵の上陸は免れない、
捕まらないうちに軍から玉砕しなさいと言われているから
水杯して一緒に死にましょうね」
といった。
わたしは死にたくないと思ったが、口に出せなかった。
父は「どうしても死なないといけないのか」と漏らしたけれど、
兄は「軍の命令だから」と、父を諭すようにいって、水杯をかわした。
そのとき兄は、
「いままで親に迷惑ばっかりかけて、親不孝だったけれど、
あの世にいって親孝行をつくしますから」と・・・。
そして子どもたちを抱き寄せて
「こんなに大きく育てたのにくやしい、ゴメンね。
お父さんも一緒だからね」と言って涙を流し、
抱きかかえて泣いた。
事情のわからない子どもたちは目を白黒させていた。
それから子ども達には晴れ着を着せて、私が握ったおにぎりを食べさせた。
子どもたちは無心に真っ白いおにぎりをほおばっていた。
この話をすると、目の前にあのときの子どもたちの姿が現れて、自分も胸がいっぱいになってしまうんですよ。
兄がかわいい子どもたちに手をかけた時には、
どんな思いをして手をかけたのかねと思うと、今でも涙がでますよ
(後略)
城信子さん(78歳)
父は爆弾の衝撃で、酔ったようにフラフラ歩いていた。
それを見たどこかのおばあさんが、危険だからと自分の防空頭巾をかぶせてくれた。
民間人の防空頭巾をかぶってフラつきながら歩いている防衛隊員の父を不審に思った兵隊が、
スパイ容疑で赤松隊長のところに連行していった。
本部前の広場では、緊張のあまりに気の狂ってしまった防衛隊員を、兵隊が切り殺そうとしていた。
ちょうどその場面に、父は出くわしてしまった。
そこに、赤松隊長が来て、「気でもおかしくなったんですか」と尋ねた。
しかし赤松隊長は父をよく知っていたので、その場はなんとか生き延びることができた。
父は、「このままでは自分もいつか殺される」と思ったようだ。
その後、父は食料を取りにいかされ、米軍が上陸するのを目撃。
混乱に乗じて日本軍から逃れた。
一方、父がいなくなった家族は、北山の集合場所にたどり着いた。
先に到着していた住民が、「集団自決」した直後だった。
死体の中をかき分けて、第二玉砕場となったヒータティヤーに着いた。
おんぶしていた弟が、「お腹が痛いよー」と泣いたので、
結ひもをほどいて、地面におろした。
その瞬間、砲弾が落ち、その破片で弟は即死、
妹も肩甲骨の肉をめくりとられた。
妹の怪我を治療して欲しいと、兵隊のところに行ったら、
「ここに民間人が来るかー」といって、刀を振り回された。
(中略)
その後、父が生きていることを知らされた。
父は日本軍から逃れて、山に隠れていたのだ。
再会したとき、父は「日本軍に見つかったら殺される」と言った。
それで、日本軍から父を隠すために、畑に穴を掘った。
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同じような証言が、いっぱい出てきます。
なんで、同じ日本人なのに日本軍が沖縄の人を殺すようなことになったのか。
なんで日の丸あげるのを嫌がる人が多いのか。
ひとつひとつ理由があるはず。
それを丁寧に聴いたり話したりする時間がないままに
戦後突っ走ってきてしまったんかな、と思います。
このまえ、石川県の地方議会議員さん(国旗・国歌のことで強い意見を言っている人)と話す機会があり、
「沖縄の人がなんで日の丸に抵抗感持つのか
聴く気持ちを持ってあげてほしい」とお願いしたんだけど、
「そんなひとりひとりの言うこと聞いてたら、
国が成り立たないでしょう!」と言われました。
そうなんかな。
いまからでも、いまだからこそ、ゆっくり、
何があったんか?
いま何を思っているのか?
沖縄のおじい・おばあに聴いてみたい。
国は、みんなが税金払っている間は成り立つと思うから。
歌や旗を無理強いしても、いい国にはならないと思う。