<むつみ>
6月23日は、ム・ツ・ミの日(笑)
そして私には、結婚記念日でもあります。
結婚式の日は、式場の都合で決まったのですが
「ムツミの日」だと気がついたときには「カカア天下決定!」と家族が大笑いしたものです。
その時は知らなかったのですが、6月23日は、
太平洋戦争・沖縄戦の戦没者記念日。
沖縄で何があったか、あまり詳しく知らなかった私。
去年、家族旅行で沖縄に行ったとき、
慶良間諸島の座間味島というところに行きました。
那覇では戦車を見たりしましたが
座間味は、本島からフェリーでかなり行ったところだったので、
「こんなところまではアメリカ軍は来なかったのかな」なんてチラリと思いつつ
ウミガメが目の前で見られるような素敵な環境に大喜びして過ごしていました。
座間味での2日目、釣りをしていた女性が
「座間味は、沖縄で一番先に米軍が来た場所なんだよ」と
教えてくれました。
こんな小さな、美しい島、今は戦争を思い出させるもの何もないけど、
米軍が来て、何をしたんだろう?
とっても優しくしてくれる宿のおじいさん、おばあさんも、被害にあったんだろうか?
島を離れる直前、島唯一の小さなスーパーの片隅に並んでいる本を見つけました。
「沖縄戦 集団自決を生きる 渡嘉敷島・座間味島の証言」
という本。
楽しい家族旅行の気分とは相当そぐわない本だったけど
すごく気になり、購入。帰りの飛行機で読みました。
発行は2009年。
75歳、84歳、98歳・・・お年寄りの証言が詰まった本でした。
島ではたくさんお年寄りを見たけど、あの人もあの人も、被害にあったのか。
「天皇陛下から頂いた大切な武器」と、それまで決して住民の手には渡らなかった手榴弾が、
米軍が上陸したのを境に、
兵士から住民に「これで自決しなさい」と渡された。
捕虜になってひどい目に合う前に自分たちで死になさいという教えが広まっていた。
どうしても死ななければいけないのかと問うた住民には
「命令です」と。
米軍があと300mのところまで迫っている、と知らせが入り、
「玉砕場」に集められていた住民には手榴弾が手渡され
「天皇陛下万歳」のあと、あちこちで爆発。
爆発で死んだ人、大怪我や大やけどをしたけど生き残ってしまった人、
手榴弾が不発で死ねなかった人、
手榴弾がないからと、かみそりで奥さんを殺す人、
家族を殺したあと首をつって死ぬお父さん。
壮絶な証言が、小さな本の中で、これでもかと続きます。
私の心にいちばん刺さって、そのあとずっと抜けなくなった証言は、
金城重明さん、79歳のもの。
(本より)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の家族には手榴弾がなかった。
全員が死ぬだけの数がなく、
また多くの手榴弾が発火しなかったために、大混乱に陥った。
(中略)
そこに阿波連の区長さんが現れ、
木の枝をへし折っているわけですよ。
やっぱり、とうとうその時がきたかという感じですよ。
その木片がかれの手に握られるやいなや、
自分の愛する妻子をメッタ打ちにして撲殺したんですよ。
自分たちもこうして愛する家族を殺さなければと思って
まず母を石で殴って殺した。
兄と一緒に。
何も会話はなかった。
ただ「みんな死ぬ」ということが前提で、どうしようかという言葉もない。
弟、妹にも手をかけた。
兄と死の順番を話し合っていた時に、
一人の少年が「敵に切り込んでから・・・」というので、一緒に
集団自決の場を立ち去りました。
米軍との遭遇を求めて、夢遊病者のようにさまよっていた。
そして皮肉にも、一番初めにあったのは日本兵だったのです。
裏切られた気持ちでいっぱいでした。
沖縄戦のキーワードは軍と民の「共生共死」でしたから・・・
とっくに突撃して玉砕したはずの日本軍が、この島では組織として生き延びたんですよ。
二番目の衝撃は、
村長の下に愛する家族を殺し、
自らも死を求めていたのにもかかわらず、
村長をはじめ多くが生き残ったということだった。
(後略)
(証言ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
米軍の捕虜になれば、耳を削がれる、女は辱めを受けると
教え込まれていたけど、それは間違っていた。
殺さなくてよかったのに家族を殴り殺してしまい、
自分は生き残ってしまった。
人として生きていてこれ以上の苦しい目があるのか?
でも生き残った金城さんをまだ苦しめる出来事が
戦後何十年もたってからやってきた。
2007年。
集団自決について、
日本軍による命令や強制があったと書かれた教科書に対して、
文科省の教科書検定で 「ダメ」だと。
日本軍の命令はなかったと。
住民が勝手に思い込みで集団自決をしたのだと?
日本軍がいなかった島では、集団自決は起こらなかったのに。
沖縄では11万人!!!が怒りの集会。
本土では?
戦後63年、辛すぎる記憶をしまいこんでいた沖縄のお年寄り。
せめてもの救いとして、自決のことを
「お国のためと言われて仕方なかった」と思っていたかもしれない。
それが、「国はそんなことを言っていませんよ」と?文科省。
それが証拠に、そんな命令は文章に残っていないと。
では何千、何万?もの人が「軍からの命令だった」と記憶しているのは
なんだったと?
私はこの本を読んで、ようやく悟ったことが一つ。
「国」というものが、存在すると、何も疑っていなかったけど、
あのとき沖縄の人達が「国」だと思っていたものは、
「国」じゃあなくて、「国の形をしてやってきたナニモノか」だった。
日本軍=国だと思ってはいけなかったんだ。
「国」が言うから仕方ない、
「国」が決めたことだから仕方ない、と
思っちゃいけなかったんだ。
「国」じゃなかったんだ。国のふりをして来た何か、だったんだ。
だから「これは国の命令です」と思わせる状況があっても
自分の考えは違う、と、思っても、よかったんだ。
いまも同じことが日々、ありますね。
原発。国が決めた政策だから、と従ってきたけど
国じゃない。国の形を借りた誰かの意見だわ。
集団的自衛権。
どこが敵かを決めるのは「国」
それも「国」じゃなくて、その時の指導者が決める。
安倍さん=「日本」なのか。
それが時代によって
日本=志位さん になることもある?
国を愛しましょうと言われた時に、
年配の人たちの中にひどく抵抗を持つ人たちが多いのは
「国の形をしてやってくる何か」がコロコロ変わることに、ほとほと懲りているからなんだ。
沖縄の人が何千、何万と「日本軍の命令だった」と記憶しているなら
その「何か」が、なんだったのかを、
「国」はしっかり受け止めればいい。
そこからしか始まらないのでは。
23日のうちにUPしたかったけど、長くなり、24日になってしまいました。
でも、一年間どうしても書けなくて、
やっと書けてよかったです。
長い文を読んで下さりありがとうございます。