後ろのページ ’99 3月、5月 フィリピンに行ってきました その3

1 クラフトの話

いつもいつも暑いフィリピンにも一応の「夏」があり、中でも3月の終わりが一番暑いと聞いていたのですが、着いてみたら、豪雨の日もあるくらいで肌寒い。
「エルニーニョ」の反動で「ラニーニャ」がきているのだという説明でした。
私たちが訪問した児童施設パグサゴップは、フィリピン南端の島ミンダナオ島にありますが、同じ島でつい最近大きな洪水が起こったりしています。

この施設とのお付き合いも3年目に入り、昨年10月の訪問では、子ども達とスタッフで作った物を日本で売ってみよう、まず見本を作ってみよう、というところまでこぎつけました。
訪問時に作って持ち帰ったものはそこそこ順調に売れたので、その後をどう続けるかというところで、こちらでもいろいろ考えたり、周りからも注文があったり、日本側の手応えとしては「この調子でいけるかも」

ただパグサゴップ側の様子があまり伝わってこないことで、心もとなさが常に付きまとっていました。追加で頼んだものも、送られてくるものとこないものがあったり。スタッフが、やれ大雨だ、畑だ、休暇だ、交通事故だ、と忙しくしているということがFAXで何かのついでに知らされる、という感じで、それだけでは見通しが立ちません。

クラフト専従のスタッフがいないことがとにかく問題だと私たちも感じていました。
せっかくパソコンを入れるキャンペーンまでやったのですから、通じたE-Mailを生かすためにも、いつでも連絡が取れるスタッフを確保したい。
そのことを最初に話し合おうと思っていました。

着いた日の夜、パグサゴップ代表のフビラン弁護士に時間をとってもらい、話し合いをしました。
スタッフが欲しい件は、前もって伝えてあったので、少しは考えてくれてあるかな?と淡い期待を持っていたのですが、やっぱりそんなことなくて、「スタッフ?よし、今ティティンが大学の夏休み中だからティティンにしよう」
あ~、やっぱりそう来たか。

フビランさんはとにかく忙しい人で、フィリピンを代表する人権弁護士でもあり、今回の訪問中も、めったに誰も会えないゲリラ組織のリーダーとの会見を取り付けてきたり、と忙しくしていて、まあ、私などが気安く話していることがほんとは不思議で、クラフトのことまで気が廻らなくて当たり前かもしれない。
でも、私たちは、できたらこの計画が、今はフビランさんの私費でようやく運営されているパグサの経済的な安定につながれば、というところまで考えてる。
高い旅費を払い、たくさんの人の協力を得てようやく来ているんだから、思い付きだけで話をされても困る!
のんびりした南国気質を割り引いて考えるとしても、もうちょっとくらいこちらの真剣さを分かってもらえないと、この先やっていけないかも。でもそれはどうやったら伝わるんだろう。

ティティンをクラフト専従にという提案には、もうひとつ別の理由で私にはすごくひっかかるものがあったのですが、それはちょっと置いておいて、今は他にすぐに誰か見つかるわけじゃないし、まあ仕方ない、本人もやるというし。
で、パグサの卒業生でもある彼が、私の滞在中いっしょにクラフトの仕事をすることになりました。

フビランさんとティティンを前に、まず私が言ったことは
「これ、マニラで買ってきた材料。使いたいものがあったら売りますから、どうぞ」

いままで2年間、私は皆さんからのカンパを運ぶ役割をしてきて、向こうも行くたびに精一杯もてなしてくれて、くらぶの仲間が行ってもそれは大事にしてくれて、いつも友達仲良しモードで、にこにこ、にこにこで来て、なにかいいものを見つけたらクリスマスに送ったりということもずっとしてきて、だからクラフトの材料も今までの流れなら「はいプレゼント」となる。
だから、私が材料を「売る」といったときにフビランさんもティティンも、え?という顔に。

「これからは、クラフトのことは分けて考えよう。お金の問題じゃないんです。この計画がほんとに利益を生み出していくのかをちゃんと見たいんです。だから材料代はそっちで全部管理して、実際に利益が上がってるのかどうか、どうやったら利益があがるのか、そっちでも分かるようにしてね」と説明してみました。
分かったよ、と言ってはもらえたものの、流れる空気は張り詰め気味。
(これを読んでいる方は、材料費を向こうが出すことくらい当然、と思われるかもしれませんが、それまでの付き合いがそうでなかったので、ちょっとしたヤマ場だったのでした。)
その重さを払いたくてお互いに「はい、これいかが?毎度あり!」「ちょっと、この色ダサいよ、こんなん要らんわ、なんで買ったの?」と冗談でまきながら作業をすすめました。

その後10日間ほどの作業の中から新しくいろんな物を作りました。
ひとつひとつの買い取り値を決めるときに、今回は、どう決めればお互いにとってフェアなのかというところにこだわってみました。

まず、1日働いた場合の平均的な賃金というものを、5人の人に聞いて平均を取り、決めました。
そして、商品ごとに1日幾つ出来るかを考えて、その数で1日の賃金を割り、1個あたりの労賃を決めました。そのあと、原材料費を徹底的に調べました。
ビーズ1個0.03円って感じでほんとに徹底してやりました。それに関税と送料を加えて、買い取り値の出来上がりです。
これなら、あとから問題が出て値段を調整するときにも、お互い納得済みでやれると思ったのです。

でも、初めは、今までとにかくにこにこしてきた私が急に電卓たたいていろいろ言い出したので、皆びっくりしていました。
「ムツミ」「ビジネス」という単語の入った会話があちこちで交わされていました。

見えない壁が出来たようで、私のほうもさみしくなってきました。
にこにこしてるだけのときの方が楽しかったかな…と。
なんか、孤立してきたな~。

でも、まあ、別にいい人と思われる必要ないんだし。
ちゃんと計画が上手く動いていって、利益が上がっていけばパグサはそれでいいんだから。

そんなだったから、数日立ったころ一緒にビールを飲んでいたティティンが、
「俺はあんたのやり方はいいやり方だと思う」と言い出したときには、おや?意外でした。
フビランさんがお客さんに、「ムツミ達は私たちのビジネスパートナーなの。お互いフェアにやっていこうとしてるんだよ」と説明しているのを耳にしたときには、やはりほっとしました。

 

2ブレスレット

子ども達とも話をしなくてはいけないことがありました。
彼らからはすごいペースでビーズ細工のブレスレットが送られてきていて、色目やデザインは工夫されて素敵なのに、作りが雑でちぎれやすい。
だから、せっかく送られてきたものだけど、かなりの数を返品することになっていました。

全員集合をかけ、話をしました。
「お客さんは、みんなのブレスレットが好きで、きれいだねって買ってく。それがすぐ切れるんじゃ申し訳ない。ゆっくりでいいから、丁寧に作ろうね。丈夫なやつしか売りたくないから、これは返すね」
ごっそり返されて、女性スタッフ2人からは「きゃ~~~それ全部??」と笑い。
子ども達はなんだかよく分からない?という顔で、じっと見ていました。

金沢でお店をやっている「ノブさん」と「なっちゃん」からいろんな編み方を教えてもらってきていたのでそれを見せて「新しいやり方やってみたい人?」「は~いは~い」

朝から晩まで、いつ見ても皆でブレスレットを編んでいるという日が数日続きました。
もう寝る時間になっても止めない子がいました。
その中でも、全く違うことをしている子もいる。よく見ていると、取り組み方はそれぞれです。

パグサの子たちは、1日の中でいろいろな仕事をしています。
掃除、畑、炊事、洗濯。結構な量をこなしているのですが、それをいつも淡々と進めている。
がんばって一生懸命…という感じではないです。
そこに仕事がある。それをやる。そのくりかえし。ただそれだけ。
これは上手く言葉では表現できないのがくやしい。
見ていて「えらいね」などの言葉をかける気にならない。そんな空気ではないような。

スタッフに呼ばれて言い付かった仕事はすぐにやります。
「え~」とか「OOちゃんに言えば」とかそういう場面をまだ見たことがない。姉妹でお使いを押し付け合っていた自分の子供時代のことを思うと、不思議。

持病のあるギンギンが入院した夜、スタッフのアルマさんが付き添って泊まり込んだためパグサには大人が誰もいなくなり、「ご飯はどうなるの?」と思っていたらいつのまにか3人の女の子が野菜を切っている。
米を洗い、かまどに火を起こし、野菜をいため…。
大雨の夜で、ざあざあいう音を聞きながら、たんたんと進む仕事を私は離れて見ていました。
やるべきことをやっている、少しも気負いのない姿。

食べる、皿を洗う、遊ぶ。水浴び、着替え、畑仕事。
牛の世話、ブタの世話、植木の水遣り。その姿ひとつひとつ、淡々と、でも「生きてる」って感じがする。おおげさだけどそんな感じ。「そのとき」を生きてる感じがする。いつも見とれてしまいます。

それで、ちゃんとちぎれないブレスレッドが出来るようになったかというと、最後の日に「チェックしてあげるから1人1本作って持っておいで」といったつもりが、最後の日だったばっかりに、出来上がったものを皆で「お姉ちゃん、これは思い出に持っていってね」と腕に巻きに来られて「ありがとう」としか言えなかったのでした。ははは。

 

 

3卒業式

3月は卒業シーズン。
今年小学校を卒業するのはジンジンひとりだけ。
あと、各学年で成績3位までの子どもが式で表彰されますが、1年生のモネットが2位の成績を取ってきたので、2人のために、みんなで式に出かけました。

モネットは2年ほど遅れて去年就学しています。
父親だけの家庭で、下の兄弟3人の面倒をみる暮らしがかなりつらかったようで、家を出てさまよっていたところを保護されたそうです。
スタッフからその話を聞きながら、こんな小さくてそんな大変な思いをしてきたのかと私はショックだったのですが、一緒に聞いていたみゆき先生(今回同行してくれた2人のうちのお一人、金沢の幼稚園の先生なのです)がひとこと

「自分で決めたんやねえ」
う~ん、なるほど、そうとも言うか。

いままでパグサの子らのいろんな事情をきくたびに、
私は、なんてひどい話だろう、なんて可哀相なんだろうと思って、それをいろんな人にお話して、聞いてくれた人が「可哀相やね」といってくれると、今度は「いや別に同情してもらわなくても。そういう子らでもないんです」と思うという、ひどくねじくれた状態を続けてきました。

モネットは自分で家を出ると決めて、出てきた。
どんな風に決めたのかはわからないけど、彼女なりになにか大きなものをあきらめて、越えて、出てきたのだと思います。
そのことが彼女に与えた強さとか静けさみたいなものがある。
ぬくぬく育った私には想像のつかないその強い部分を、他の子達もたいていどこかに持っていて、自分で生きている透明な強さがある。
でも今までは、「親がいないなんてかわいそうなこと」「食べられないなんてかわいそうなこと」とまず思って、「可哀相レッテル」を貼ってきていた。
でも、それがこの子たちを表現する言葉としては全く十分じゃないことも感じていた、ので、自分自身とても不自由してきたんですよ。

確かに可哀相だし確かに悲惨な過去を持っているのだけれど、それゆえにか私たちはこの子達に強く憧れている、そこをもっと自由に感じることを自分に許してくればよかったと思います。
そうすれば、一人ひとりがその目で見ているものを同じように見てこれたかもしれない。

ところでモネットはジャイアンの妹に似ているので日本側の一部でジャイ子と呼ばせてもらっている明るい子で、式で表彰されるのを楽しみにしていて、本当なら壇上で親がご褒美のピンを胸につけるところを親がいないので私にさせてくれることになっていて、それもずっと楽しみにしてくれていたのですが、当日は表情が硬くて、最後まで本当には笑わなかったような気がする。
他の子がみんな家族で来ていたから、さみしくなったかな。
「しかたないよ、家族のかわりはできないよね」とフビランさんが私を慰めてくれました。

 

 

4出入り

3月は卒業シーズンだからか、私たちがいる間にも、子ども達の入所退所が激しくありました。

3人姉妹で入っていたジョセフィン、エリカ、トトは、おかあさんが連れに来ました。
親戚の結婚式のため、一時連れて帰る、という話だったのに、あとでそれが子ども達を連れて帰るための口実だとわかって、フビランさんは激怒していました。
いろんな理由から、この3人はもう少しパグサにいる必要があったのですが、そこまでして連れて帰りたいならもう止めはしない、ということになりました。

3人の一番下の6才のトトは、去年初めて会ったときには栄養失調のためひどく小さくて、3才くらいにしか見えない子どもでした。落ち着きがなく、べたべたと甘えることしか出来なかったのが、1年のあいだに随分太って、学校でもいい成績をとってきてはスタッフを喜ばせていました。

彼女たちの家は、道の脇の掘っ建て小屋で、今までも帰省させる度に皮膚にいっぱいできものをつくって帰ってきていたので、スタッフたちも帰したくなさそうでした。
「でも、両親が揃っているのに止められないしね」
子ども達はダンボールに荷物をまとめて、お父さんと帰っていきました。
(その後、3人には5月にも会ったのですが、やはり皮膚にぶつぶつを作っていて痩せていたのでちょっとつらかった。)

7年間パグサで育ったダンテは、一家皆殺しの目にあった子ですが、1人生き残ったお兄さんが突然会いに来て、それで、村に帰ることになりました。
「せっかく高校に行き始めたのに。村に帰ったら、もう学校にいけないのに」
と、フビランさんは大変不満そうでしたが、本人はどうもあまり学業は好きではないようです。
本人の決めたことだから、と、スタッフが近くの町まで送っていったのですが、バスが通っている町から歩いて2日間かかる村らしく、7年の間に4回しか里帰りをしたことのなかった彼は帰る道がわからなくなり、結局また戻ってくるというハプニングも。

ラライは、パグサで本当に明るく楽しくしている子なのに、自分からうちに帰ると言い出した。ちいさい弟が2人いて、何も食べるものがない暮らしをしているから、自分が帰って、働いて、食べさせたいのだと。うれしそうに弟の名前を教えてくれました。

新しく入ってきた男の子、ジョジョは、13才だというのですがどう見ても6、7才の大きさ。がりがりの体にあざがいっぱい。
おばさんを頼って100キロほど逃げてきたというのですが、そのおばさんの下の名前しか知らないという心もとなさ。でもとても強い子のようで、到着した1時間後から、他の子に混じってビーズ細工を始めていました。
「これどうやるの」と、自分から聞いていました。

新しく来た子は、しばらくは食事をしなかったりするのですが、この子は1日目は遠慮がちにちょっぴり、2日目からはもうがつがつ思いっきり食べていました。3日目の表情を、VTRで最初のと比べてみると、そりゃあ違うので面白いほどです。
老け込んだ老人のような目だったのを、たった2日間の安全な暮らしが、生き生きした子どもの目に変えていました。

あざのあるジョジョの顔を横目で見ながら食事をしつつ、隣で食べていたティティンに、「あんたも子どもの頃殴り合いの喧嘩とかして傷をつくったことある?」と聞いたんです。そしたら、「殴り合いはしたことないけど、銃を持って闘ったことがある」と言われました

彼との会話で、ときどきこんな風に、うっかりと深みに足を突っ込んでしまうことがあります。知り合いの表現を借りれば「あ、また地雷踏んだ」、という感じ。

銃を持って闘っていたのはパグサに入る前、10才くらいのとき。
「それってどんな風やった?」
「撃ってる最中は、エキサイティング。しばらくあとから震えが来て、トラウマになる。」

いがぐり頭の小さいティティンが銃をかまえて草むらに隠れて息を潜めている姿が目の前に浮かんできて、私が手に持っていたスプーンは、しばらく皿の上をからからまわるだけになっていました。

お兄さんが4人殺されて、お父さんや他のお兄さん達も、捕まっては拷問され、解放されて、また捕まる、っていうのに耐え切れなくて、村を逃げ出したそうです。
悪名高いマルコス政権中の話。
ティティンの家族がなんでそんな目にあったか細かくは知りません。
でも、「鍼をうつことを教えていただけでアカ狩りにあった」時代です。(鍼=中国=共産党という連想か。)
政府と考えが合わなければ、誰でも捕まって消されていった。
お父さんは、土地を守る農民運動をしていたという話です。

その国その国のやり方があるとは思いますが、貧しくて病院にいけない人たちのための鍼の活動が「反政府活動」とみなされる国、自分達の住んでいる土地のことで物をいったら捕まる国というのは相当に病んでいると言わなくてはいけないでしょう。

そうやって国内は押さえておいて、海外の国にフィリピンの資源をどうぞと差し出す、ということをやってマルコスさんはイメルダさんに3000足の靴を買ってあげていたと言えると思うのですが、(それでその時代は、日本をはじめとする諸外国がどうもどうもと儲けさせてもらっていた時代だったのだと思うのですが)政府は自分達の方ではなくて、お金持ちの外国の方しか見ていない、と、絶望した貧民層がゲリラになって山に入っていったというのがある。
その中にはティティンのような、わけもわからず銃を持っていた子どももたくさんいたんでしょうね。

実は、くらぶで扱っている人気商品「フィリピン・ネグロス島産バランゴンバナナ」が、このころちょうど、地元ネグロス島のゲリラに邪魔をされて、出荷が出来ないでいた時期でした。
フェアトレードのバナナ=貧困層の自立のためのバナナ、のはずなのに、どうしてゲリラに狙われなくてはいけないのか、わからなかったんですが、このゲリラグループ(いろんなグループがある)の言い分は、
「バナナを売って自分達だけ儲けて。他の貧困層はどうなるんだ。皆に暮らしよい国をつくるためには、この国を根本から変えなきゃいかん。バナナの利益の中から、革命のために、お金をよこせ」
と、大意はそんなことのようで。

革命って、また殺し合う?
それは私なんかにしてみればとっても非現実的で、
「そんなことしてどうなるん。それより、地道にバナナを売って、変えられるところから変えていこうよ。
ほら、フェアトレードでバナナを売ってる村の中には、こんなに変わってきているところもあるじゃん」
なのですが、フィリピンの貧困層の現実っていうのは、マルコス時代とたいしてかわらないくらい八方ふさがりのところもあって、彼らにとっては
「ちまちまバナナ売って、それでどうなるん?この状態は、もう革命しかないって」
っていうほうが現実的?

ティティンは、立場の弱い先住民の子どもとして辛酸なめつくしてきて、お父さんは今も、逃亡生活のつけで喘息がひどいこともあって、自分だけじゃなくておとうさんの面倒やいろんなことを抱えています。
そんな彼と一緒にココナッツの殻を削っていると、気持ちが複雑です。
このプロジェクトは、彼にはどんなふうに見えるんだろう。こうやって少しづつの仕事を作ることは出来るけれど、根っこのところで、「南」の国が差し出し、「北」の国が取る、というシステムは変えられないでいるんです。

でもでもでもそんなことをいっていても………

革命だ!って言っている若い人は、パグサのある街にもたくさんいます。
そんな人にあうと私は「暴力はいけない」と弱々しくつぶやくのが精一杯。

(バナナ問題は、今は落ち着きました。10年間積み重ねてきたもののお陰で、ネグロスでは今回マスコミも行政も、バナナの民衆貿易の味方をしたそうです。
10年前にはゲリラやってた人たちが、今はバナナで生活を変えようとしている、という村もある。
バナナを売るより大切な「自分達の畑作り」=「本当の自立」に、バナナ貿易で培われた住民同士のネットワークとバナナの利益が生かされていっている。
10年前にどうにもこうにならなかった状態をここまで変えたのはやっぱり日本とのバナナの民衆貿易だった。
それはほんとです。
どんなに小さくても私たちに変えられるものはやっぱりある、と、思います。真剣にやればね。)

 

 

5創立10周年

3月に訪問したあと、またすぐ5月に行ったのは、パグサゴップの創立10周年式典に参加するためでした。
「フェアトレードくらぶ」は貧乏所帯なので、短期間に2回もいくなんて経費的に大変なことなのですが、こういう節目節目のお付き合いはなによりも大切にされる国のようなので、出席しないわけにはいきません。

飾り付けられた会場の、舞台の正面に鎮座ましましているのは、我らがココナッツクラフトたちではありませんか。地元でも売っていければ、と考える、代表フビランさんの演出。

前回、PCが設置されて、メールも開通して、コミュニケーションは格段に豊かになっているはずの私たち、それにしては、いってみるとまたしても「???」ということが、出て来る出て来る。

3月に来たときに買い付けたクラフトのお金は、クラフト担当になったティティンに渡してありました。
クラフトに必要な費用はそこから出して、フビランさんからお金を借りたりはしないように、と話してありました。独立採算制なのです。

ティティンに「前のお金まだある~?」と聞くと「もうなくなった」という。
あらそんなにはやく?
「何に使ったん?レシートとってある?」
「自分で買い物した分は取ってある。あとの2人(見習いで入っている学生さん2人)が使った分は、わからなくなってる」
「う~ん……覚えとる分、全部書き出してみんか。」
しばらくして
「あれ、あと200ペソほど残っとるはずや。自分のお金とごっちゃになってしまって」

これには私、かなりがっくりしました。少なくない額のお金を直接渡したのは、彼の真面目さと几帳面さを見込んでのことだったのに。それがこれでは…私にはやっぱり人を見る目がないのか?
「お金は、混ぜたらいかんと思う。何が何だか解らなくなるのはこまるやろ」と話すと、
「僕もそう思う。明日からちゃんと分ける」

一晩落ち込んで、いったいどういうつもりかとあれこれ考えて、この子が当てにならないとしたら、この先何をどうしていけばいいんや~、とも考えて、思い至ったことは、やっぱりこの国では「公」と「私」の概念は私たちとは違うんだろうということ。

人のものは私のもの。私のものは人のもの。
そういう所がある人たちです。
人が物をもっていれば、タカる(言い方が悪くてすみません)。そして自分がもっていれば、分ける。
それは日本よりずっと当たり前にあるように思います。
例えば、マニラでホテルを経営している知り合いが以前愚痴っていたのですが、従業員の友人やら兄弟やらがいつも台所に出入りして夕飯を食べているとか。
政治家が自分の親戚で周りを固めてるなんてことも、「親戚同士助け合うのが当たり前。」

そうやって考えてみれば、ティティンは、いつもいつも自分の時間やお金を、パグサの子ども達のために使っている。
ちょっと考えられないくらい献身的。
そういうことなんじゃないかな、と考えて、気持ちを切り替えることができました。

でも、やっぱり財布は2つにしてもらいました。この先もこれでやっていく予定です。
今回は向こうがすっと合わせてくれたので問題はありませんでした。
この先はまだいろいろあるんでしょうね。
理解するということと、一緒になにかやっていくってことは違うんですね。
お気軽に「共に生きる」とかいってた昔の自分がうらめしい。

他にもいろいろありましたが、思い出すと疲れるので書きません。
ひとつひとつの話し合いの大切さを痛感しました。
その点で、メールをつないだのは大変に大事な、有効なことでした。
だって帰国してからでもいつでもどんな小さいことでも言い合えているから。
パソコンを入れようと言い出したのはくらぶの浅井さんでした。
(最初は、そんなお金がどこにあるんだ、と、まじめに話しも聞かなくてごめんなさい。しつこく話題にしてくれて良かった。)
バレンタインのキャンペーンにのってPC購入計画に協力してくださったお客様やマスコミの方達、JCA-netの皆様その他パソコン関係で知恵を授けてくださったお友達たちには、このプロジェクトを進めていく間、ず~っと感謝しつづけます。

 

 

6ミーティング

児童施設パグサゴップ10周年のお祭りが終わって、翌日からクラフトの仕事を始めました。

経営的に苦しいこの施設を、クラフトプロジェクトで支えたい。いいものを作って、ちゃんと売れるようになれば、お互いにとって自信になるはず。カンパだけの付き合いよりずっといいはず。
そう思って取り組んできたのですが、「5 創立10周年」に書いたようなことの重なりで、行き詰まりを感じ、今回の訪問ではなかなか眠れない日が続き、打開策として初めて、ミーティングというものを持ってみました。

まず子ども達と。

広間に集まって、輪になって。膝をそろえてずらりと座ってる姿がかわいいです。
考えてみたら、当事者であるこの子たち自身の気持ちを聞いたことが一度もなかった。
そもそも、自分達が売上を上げていっているという自覚はあるんだろうか。
お金は子ども達に直接は渡らないのですから、何をやっているのかわかっていない子も多いかも。
それで、「クラフトを売ったお金は何に使いたいと思っていますか」と聞いてみました。
返事がない。みんな黙っている。
「え~と、子ども達にそんなこと聞いてもわかんないよ」と、通訳をしてくれているティティン。
「え、なんで」
「だってそんなこと聞かれたことないから」

う~ん、欲しいものややりたいことはあるはずだ、しつこく聞いていると、ぽつぽつと話し始めました。
「自転車」「テレビ」「洋服」「カバン」
「何に使うん?」
「学校に」「靴」
一番多かったのはカバンと靴でした。

ちなみに、話し始める前に、子ども達は「ティティン兄ちゃん」に「ムツミ姉ちゃんは何を聞いても怒らないかなあ」と確認していました。
「大丈夫、彼女は怒らないよ」と聞いて初めて、欲しいものを言い始めたんです。
「何が買いたい?」なんていう質問がほんとに子ども達の思考回路にとっさには、はまらないものだったんだと気付いたのは数日後、みんなで町のカフェ(っていってもさあ…)にいったときで、「好きなもの頼んでいいよ」と私がいうのに皆じ~~っと座っているだけ。
「なんで?」とスタッフに聞いたら
「どれでも好きなもの注文なんて、生まれて一度もいわれたことないから、どうしていいかわからんのや」と。

他には、今作っているブレスレットの他にどんなものを作ってみたいか、どんな素材を使ってみたいか、ということを聞きました。
「とうもろこしの皮でねえ…」
「ココナッツの髪留めとか…」
「アバカでバッグもできるよ…」
女の子たち生き生きとしゃべり始めました。
そうか、いろいろ思ってたんだ。でも今までは言われたものだけ作ってたんだ。

「なるべく子ども達のアイディアが生きる方向で、物を作ってください。実用化されたらきっと自信がつくだろうから」と、スタッフには話しました。
どんな風に進めていったら、子ども達の「主体的な働き」になるのか、そこはもうちょっと早い段階で考えておくべきだったと思います。

他には、「お客さんは結構、皆の性格とか毎日何してるかとか聞くのを喜ぶし、へえそんな子達が作ったんか、って思いながら使っているんだよ」と、話しました。

この日を境に、子どもたちの中に1人リーダーを立てて、その子を中心にビーズの買い出しをしたり、品質チェックも子どもたち同士ですることになりました。
最初のリーダーには、ミラ(前回の報告に出てきた子ですが)がなることになり、まじめな顔でノートに「誰が何をいくつ作ったか」書き付けていました。
それをもとに、買い取り値の一割ほどですが作った子どもに直接渡ることになりました。
これは、スタッフのアルマさんの強い意見で、そうなったのです。

次の夜、大人のスタッフ全員でまたミーティング。

直接クラフト作りに携わっているスタッフ(4人)は、全員、ほとんど英語を話しません。
このクラフトのことでは私は施設の代表フビランさんとはそこそこ話し込んできましたが、その話が他のスタッフにどんな風に伝わっているのか、それは確かめようがなかったのです。
それで皆で集まってのミーティング。
このプロジェクトをやることの意味、日本での反響、などなどを確認。

しゃべっていたのは殆ど私ひとりで、他のスタッフからは何も出ませんでした。
でも私、知ってました、ほんとは皆それぞれ言いたいことがあるってこと。
事前にいろいろ聞いてましかたら。お給料のこと、労働条件のこと。でも言い出せないんですよね、いろんなことが邪魔をして。
よそ者の私になら何でも言えるけど、いざ皆の前に出ると言えない。それはどこの職場もそんなもんですよね。

そこで私がそれぞれに替わって「あれはどうする、これはどうする」と話を振る、というへんてこな立場になりました。
結果として、それぞれの不満は解消され、皆が一応の満足を得た、ということは、翌日からの皆の働き振りで一目瞭然でした。
特にリーダーのパイサンおじさん、それまでとは打って変わって、なんとも独創的なデザイン(まさにデザインと呼ぶにふさわしい!)ものを創り出すようになりました。
ココナッツでバラの花まで作っちゃったんだからもう。
知りませんでした、ここまで器用な人とは。
今までは、いろんなことで、やる気が邪魔されていたんでしょう。それを、「なんでここまでなのかな」とちょっと低く見ていた私、ずれていたんですねえ。

お互いにとって、自分が出せる職場になるといいなと思います。

目的や、いろんなことが整理され、やりとりもスムーズになっていきました。
日本に帰ってからも、「こんなものどうかな」とメールを送ればすぐに「サンプル送った」と返事のメールがきたり。
フィリピン人呑気だから、と、今までは対応の遅さなど全てをそう思って済ませていたけど、違ったんだ。
ひとつ発見。

以前は「ココナッツなんて床の掃除に使うようなもんなのに、なんであんたはそんなもの欲しがるの」と聞いていたスタッフたちですが、今は「これで何が出来るかな」と考えてくれている。
「山ではこれをこんな風に使う」など、伝統を教えてくれたりするようになりました。

「日本はアジアで一番の国。フィリピンはゲベから2番目」
古着のTシャツでも私たちが持ってったものなら「嬉しい!日本からの、輸入物だもん!」って大喜びする人たちです。
「フィリピンのもの駄目。外国ものがいい」って、ちょっと前の日本もそうでしたっけ。

それでも、私たちが日本からどやどや来てはココナッツを手に「かわいい!」「もっと作って!」と言う、そして買っていく、そんな中でなんとなく、スタッフ達が、「ここにあって、日本にはないもの」としての素材の良さを認め始めている。
「どこにでもあるものでなくて、ここにしかないもの」を作ろうとしてくれている。それが確実に売れていっていることで、何かが変わっていっている。

先月、パイサンおじさんの妹の結婚式があったそうで、村中全員集まっての大披露宴、パグサの子ども達もみんな招かれたそうですが、フビランさんによると、
「とてもユニークな宴でした。料理がココナッツのお皿に盛られていて、ギブアウェイ(招待客へのプレゼント)もココナッツのクラフトものだったんだよ」

「フェアトレード」には「文化をのこす」という役割がある、としているフェアトレード団体も多いのですが、お互いの持ちものの良さを見つける、っていうのは目標にする価値のあることだと思います。
(私たちが気付いていない日本の良さも、そのうち向こうが教えてくれるかもしれないね)

 

 

7スミナオ

フィリピン・ミンダナオ島の先住民族スミナオの土地が、地元の大地主バウラ族に取り上げられたという話。
くらぶが売上の3%を送金している児童施設「パグサゴップ」に、このスミナオの赤ちゃんが引き取られてきたご縁で、このケースは何度かくらぶ便りでもご紹介してきました。

事件からやがて2年になります。
今は道端に小屋をたてて住むスミナオの人たちは、この間に5人の子どもを亡くしました。
畑を取られては食べ物がつくれません。働きに出ようにも今まで独自の生活圏をつくってきた先住民だから難しく、弁護士さんたちが政府に働き掛けてようやく返してもらったほんの少しの土地も、それがどこらへんなのか見に入ることもできない(銃を持ったガードがいて恐いから)。
八方ふさがり、でもどうしても土地に戻りたい!

ということで、パグサの代表フビラン弁護士の同伴のもと、皆で土地を見に行くことに。

バウラが立てた「立ち入り禁止」の柵をくぐるとそこはまずデルモンテのパイナップル・プランテーション。30分ほど歩いた奥のほうにその土地はあるということ。

せっせと写真を撮っていて皆から遅れてしまった私。
待っていてくれたスミナオのメンバーと3人で話しながら歩きました。
「俺は、バウラが市長選に出たときに告発のビラをまいたりしているから、特にやつらに嫌われているんだ」
「ふ~ん」
そのときにパンッ!という音。
こんなところで風船でも割れたか?
振り向くと、馬に乗ったバウラのガードがピストル片手に、パッカパッカ、走ってくる走ってくる。

なんと私たちは威嚇発砲で足止めされてしまったのでした。
私有地に勝手に入ったといってとても怒っています。見た目にごく普通のおじさんなので恐くなくて、私は余裕でビデオ撮り。でも後で聞くと、2年前の土地取り上げ事件のときには、この人もスミナオに向かって発砲、何人か殺しているそうです。
「ボスのためならなんでもやる男だよ」

確かに私たちはバウラの土地に勝手に入ってる。
でもここを通らなければ、認定書つきで返してもらった土地を見に行くことさえ出来ない。一歩も動けなくなり待っていると、先を歩いていた皆もガードに追い返されて戻ってきました。2年前このガードに夫を殺された女の人も混じっています。
現場を見てきたフビランさんの話では、崖っぷちの、子どもが歩けば転がり落ちるような狭い土地だったと。

その後のミーティングではこんな状況の中でも明日にでも土地に戻りたいというメンバーと、危険過ぎるというメンバーとで意見が分かれました。どうしても戻りたいという人に向かって、フビランさんは、「無理をして戻るとまたひどい目にあうよ」と、近くの町で起こったいろいろな例を挙げて説得。
例の中には、私たちもよく知っている果物の国際企業の名前がどんどん出てきます。

デルモンテは、この土地を借りているだけなので、直接関係ないといえばいえます。でも……。
少なくとも、パイナップルをおいしく頂いている私たち日本人は想像さえしないことが、この島では毎日起こってる。

パイナップルばかりこんなに植えると単一栽培で土地が傷んで20年も使えばもう何も取れなくなるそうです。20年経ったらきっと契約も切れて、パイナップル畑はどこか違う場所か違う国に引っ越すんでしょう。命の使い捨て。

スミナオの人たちは長い会議をし、結果、2ヶ月かけて準備をし直すことにしました。
メンバー同士の気持ちを確かめ合ったり、地元のメディアに話を聞いてもらったり、再入植に成功してからの備えもしておかないと駄目だし、バウラとの話合いも…
フビランさんもまたしばらくは、自宅から5時間かかるこの町に通うことになります。
くらぶからは、「フェアトレードの日」企画で得た収入からのカンパを届けました。
これを元手に今はマットを編んで町で売ったり、ピーナッツを仕入れて売ったりということを始めたという連絡が来ています。
薬も少し買えたと。

「町の人がカンパでくれる薬には『1日3回、食後に』と書いてあるけど、僕らは3回も食べれてない」
すぐ近くにいても、事情をわかってあげられないものなんですね。そんなものでしょうね。
でも逆をいえば、どんなに遠くても、想像力を働かせて応援することも出来ると言えませんか?

今回は、アムネスティインターナショナル日本支部が、このケースについてフィリピン政府にあてての声明文を出してくれ、それを持っていくことが出来ました。
パイナップルを食べる国の私たちと彼らの間で何が出来るのか、まだまだ考えていきたいと思います。

(ながながと書いた文章に今回もお付き合いくださりほんとにありがとうございました。あとひとつだけ「おまけ」の文章が…)