後ろのページ ’98 9月30日~10月17日 フィリピンに行ってきました その2

0 パグサの子供たちはむっちゃ可愛い

ちょっと時間が出来たのでフィリピンに行ってきました。(9/30~10/10)
今まではヨーロッパオンリーの私でしたが、初のアジア挑戦。

今回は4人での旅でした。
目指すはミンダナオ島。
マニラからダバオへ飛んで更にバスで3時間弱というなかなか時間のかかる行程です。(1日半くらいかかる)
マニラに降り立った瞬間から、ものすごい客引きに悩まされながらなんとかキダパワンというその街にたどり着きました。

私たちが訪ねていったのはソレマ・フビランさんという人権弁護士さん。
そしてフビランさんが運営しているパグサゴップという共同生活宿舎の子供たちに会いに行ったのです。
子供たちは両親がいないとか、色々の事情があって家庭では暮らせないためにここに引き取られてきています。

フビランさんは以前に、アムネスティの招きで来日された事もあります。
その時のご縁で、葛葉さんという女性が前にパグサゴップを訪ね生活をともにしていました。
ところが、このパグサゴップが経営危機に陥るという知らせが葛葉さん(小浦の旧姓)に入り、彼女の呼びかけで、昨年3月に、緊急支援チャリティーコンサート「A-LIVE」を金沢で開きました。
本当に予想に反して(?)1000人を超える人が集まってパグサゴップが何とか一年近く持つくらいの資金を集める事が出来ました。

でも、それでは終わらない。
パグサゴップはずっと続くんですから。
という訳で葛葉さんを中心に私たちは、そのコンサートのあとフェアトレードくらぶ金沢という小さい会をつくりました。
フェアトレード品を販売して、その収益の一部でパグサゴップを継続して支援していきたいという思いもあって。
また、1口1,000円でカンパを募り、パグサの水道代や電気代などを分担して応援しましょうというアイディアも具体的にスタートしています。(私たちといいながら、実は私は広島にいたので何もしてないんですけど)

夢は広がる。

さらに、パグサゴップで何かを作ってもらい私たちがそれを輸入して販売していく事でパグサゴップの人が自分達の手で収入源を継続して確保できないものだろうかと考えました。
「チャリティーではなくて仕事を」
これは第3世界の人が等しく願っている事だとおもいます。
パグサゴップでのその手がかりを得たいというのが今回の旅の目的の一つでした。

私たちが持って行ったのは草というかアバカという植物の繊維で編んだらしいビーズのブレスレット。そしてココナッツの細工品をいくつか、です。
これなら出来るかな、そんな風に考えて持っていってみました。

現地のマーケットで材料を探しココナッツの殻は調達できそうな事、アバカやビーズも買える事がわかり一安心。
正味1週間ほどでしたが思った以上に子供たちやスタッフの人は、この仕事に積極的に取組んでいました。

ここの子供たちは、みんな大変な過去を背負っています。
内戦の犠牲で、お父さんを60ヶ所以上も至近距離で撃たれて蜂の巣にされた、という兄弟。
お父さんが銃で撃たれて足がとんで、もうこんなからだでは家族を養っていけないと錯乱状態になってしまって家族を殺して無理心中を図った生き残りの兄弟。
卒業してしまったある男の子のお父さんはゴム園で働いていて、でもお給料を払ってもらえなくてとうとう「給料を払って欲しい」と農園主に言いに行って数日後に殺されてどぶに捨てられているところを発見されました。
女の子はレイプの犠牲者が多いのです。

そんな子供たちが特に女の子は、ビーズのアクセサリーを編む事にとても一生懸命になってくれました。
それがお金になるとかいう事もわかっていたのかもしれませんが、出来た端から「お姉ちゃんこれ」、といって持ってきて腕に結んでくれる。
すごいねー、きれいだねー、上手に出来たねーといって誉めるとすごい嬉しそうに(一寸はずかしそうな照れたような、ですが)また次のを作りはじめる。
彼女たちにとっては自分のする事を人に認めてもらう事、自分の役に立つ事がものすごく嬉しい事なんですね。
パグサゴップに来る事で、ここでの暮らしはずいぶんと子供たちの精神の傷痕をリカバーしてくれるようです。
さらに、そうして仕事をして、それが認められる事が、彼女たちの精神の癒しになっている事をすごく感じました。

一番熱心にアクセサリーを作ってくれたミラという少女はまだパグサゴップに来て間もない子です。
まだ学校に行けないので、昼間もずっと作ってくれました。
最初私たちが着いた当初のミラは、まだ他の子供たちに溶け込めないのか所在なげでした。
その彼女が、アクセサリを作り出して(本当にきれいに仕上げてくれる)やっと自分の居場所が確認できたのでしょう。とっても明るくなって生き生きしてきました。
「ああ、それだけでも十分やねーーー」
とは、「A-LIVE」の言い出しっぺであり現在フェアトレードクラブ金沢の代表として精力的に活動している葛葉さんの、思わず漏れた一言。

本当に、そうなのかもしれませんね。
そしてこれらの製品が、実際に売れていって運営費の一部にでもなれば万々歳なのですが。

ビーズのアクセサリーが果たして日本でコンスタントに売れていくほどの価値を持つのかどうかこれから売ってみてのお楽しみ。
ハラハラドキドキしていますが、正直祈るような気持ちです。

ココナッツのハンディクラフト品はどちらかといえば男の子のお仕事のよう。
現地の男性スタッフ2人が、ほとんどかかりきりでいろいろと作ってみてくれています。

電動の、削る機械があったのでそれでココナッツの外側を削っていくと茶色の固い殻が出てきます。それを更に彫刻刀やガラスで削って磨いてつるつるにするのが、結構な手間です。
しかも内側は彫刻刀などで少しずつ削るしかないのでたーいへんです。細かいフォルムも、電動糸鋸などはないので、かなり厄介です。
そして、ココナッツオイルをなんどもなんども塗り込んでいくのですが一つ仕上げるのに、ものによっては半日仕事。

フィリピンの人との感覚の差、というのがあってまずはそこで苦労しました。
お玉のサンプルを一つ作って「これと同じ物を」とお願いしたらものによっては1.5倍から2倍もあるような「何をすくえっていうんじゃい」と思うようなものがたくさん出来てきました。
「ちがうーー」と叫んでも「同じだよ。どこが違うの?」と不思議そうな顔。
そうなんです、フィリピンの人にとってはおんなじなんですよね。
日本人の繊細な、微妙な差異にも敏感な感覚とはどうもこだわる所が違うらしい、と納得。
でも、納得してるままでは進まないので、繰り返し繰り返し、「こういう大きさでないとだめで、これ以上とかこれ以下は売れないのよーー」というのを伝えていくのが大変でした。
磨き方などの仕上げの工程にしても同じです。一定のレベル、を伝えなくてはならないのだけれど本当に伝わってるかなあ、ずっとそれを維持してくれるかなあ…そのへんが、これからの大事なポイントです。

まあ、1回で全部パーフェクトになるとは思いませんがこれからなんどもやり取りして、苦労を重ねながら作っていくものなんだろうなあと、つくづく思いました。

でも、パグサゴップの人たちの意欲、あるいは子供たちの創造性というのは想像をはるかに越えていました。
すごいのなんの、アクセサリーなんて、ブレスレット1個サンプルを持っていっただけなのに毎日行くたびに、新しいバリエーションが生まれています。
すごいねーーー、本当にすごいねーーー、
ただただびっくりするばかりでした。

と書いていくと、なんだかアジアの雑貨の買い付けのバイヤーみたいですが実際には、子供たちが学校から帰ってきて寝るまでの時間は私などはほとんど子どもと遊んでくらしていました。
おもちゃなんてほとんどありませんから日本から持っていった折り紙とか、あや取りとか。アルプス一万尺とかも人気です。

最初の日は折り紙が大ブレイクでみんなで床に座り込んで、折り紙大大会でした。
最初に鶴を折ってた頃までは良かったのですが、折り紙ブックに書いてある“かえる”とか“ウマ”とか、これがなかなか難しい。本の通りにやっても、そうならないんですよね。ウマなんかは、ついに私は途中でギブアップしましたが子どもの方が本見ながらできちゃったりするんですよ。

折り紙の王様はココイという男の子。ガキ大将チックなんだけど、妙にそういう細かくてきちっとしたことが上手な子です。
レナンとブレンドゥという兄弟は、割に大人しいのですが彼らはあや取り大好きです。
あや取りでの手品は特にお気に入りでなんどでも飽きずに「はい」ってやってくれます。
三角とりゲームは、モネットという女の子のお気に入りでした。

そんなふうに、当たり前の子供たちなんだけどものすごく聞き分けが良いのです。
8時半になるとお休みなさい、といって子供たちの方からすうっと寝に行きます。
あさは5時過ぎにはおきてそれぞれの分担の、そうじやご飯の支度やお花の水遣りなどをさっさとやっています。(学校が7時過ぎに始まるので、むちゃくちゃ早起き)
けんかもあるし、大騒ぎもするけれどどこかですごく大人なんだなあ。
それは、そういうすさまじい過去を持っているから子どもであっても大人の部分というか、あきらめとかを生きていくために持たなくてはならなかったのだろうと思わざるをえません。

だからこそ余計に可愛くなってしまうんですけどね。

私たちが滞在していて、とてもパグサゴップは楽しい所だと周りから見ても感じられたのでしょうね。お隣の子どもが「私もパグサゴップの子どもになりたい」と言ったとかいわないとか。

子供たちの通う学校も訪問してきました。
もう子供たちは鼻高々。
「うちにはジャパンからのお客様が来てるんだよーー」と
私たちの手を引いて、意気揚々と学校に連れていってくれました。
私たちはすべての学年のすべてのクラスをまわってご挨拶。どこに行っても子どもが鈴なりです。(日本人なんてめったに来ない町なので)
パグサの子供たちが誇らしく思ってくれたのならこんなに嬉しい事はないなーーと、私たちも幸せな気分でした。

そんなふうにして、あっという間に日々は過ぎ本当に名残惜しい思いでしたがさよならをしてきました。

フィリピンの人って、すごくフレンドリーなんだなあとつくづく。
私たちは、大歓迎されて、本当に大事にしてもらいました。
それはもちろん「葛葉さんのお友達」の、「パグサゴップを応援してくれる人たち」だからであり、またキダパワンが田舎だからって事もあるんでしょうか基本的にとにかく人情に厚い。そんな感じがします。
シャワーでお湯が出ないとか不自由も色々ですから単純にフィリピン礼賛をするつもりはありませんが「元気を貰ってこられる」所でした。

同時に、私たちが訪ねていく事そのものがフビランさん達を支援するのだという現実。
実際一時期、人権弁護士として先住民族や労働者の人権のために戦っているフビランさんは、脅迫などの身の危険と隣り合わせだったそうです。
家族で事務所の護衛をしたり、なにがってあも覚悟をしていましょうと、家族でも腹を括っていた事もあったといいます。
外国人の私たちが訪れてフビランさんやパグサゴップを応援する事が「外国人の友達も多いしこの人に手をだしてはまずい」と敵(?)に思わせる有効なアピールになります。
そういう現実と隣り合わせにいながら毎日戦っているフビランさんに本当に敬意を払わずにいられません。
そして、アジアの現実って、そういうことなんですよね。

そんなことを私自身いままで葛葉さんから聴いていましたけど、はーー、そうなんだーーー、と行ってみて初めて「実感」しました。
来年のパグサゴップ10周年には、大勢で行けるといいですよねえ。

これからフェアトレードくらぶ金沢のみんなで輸入やら販売やら、難しい事に取組んでいく事になります。

フェアトレード、というのは比較的新しい概念ですが、要するに第3世界の人を搾取しないで彼らが普通に暮らして行けるような取り引きをする事。
そして、その物品は、地球にも人にも優しいものである事。
そんなことでしょうか。
最近とみに、フェアトレードが市民権を得つつあるように感じています。
自由が丘には、グローバルヴィレッジという団体がとっても素敵なお店を出しました。
全国のあちらこちらに、それ系のお店なども随分増えてきつつあるようです。
「どうせお金を使うなら、そういう方がいいよね」
ってなノリで、買うほうもあんまり抵抗がなくなってきてるみたいです。

数年前まではフェアトレードのフの字もしらなかったのにいまは子ども可愛さで、すっかりはまりつつあります。やれやれ。

難しい事はわからないけど出来る所から何かできたらいいなあ、仕事の傍らそんな事をぼちぼち手伝えたらなあとそんなつもりで金沢に帰ります。

以上、フィリピン旅行記「パグサの子供たちはむっちゃ可愛い」の巻でした。
読了有り難うございました。

ではまた。

 

 

1 いざ!クラフト作りへ

「葛葉さん(小浦の旧姓)、私仕事やめたんです」

今年2回目のフィリピン訪問計画は、ある日のお客様のこの一言から始まりました。
「失業手当の出る3ヶ月間は仕事を探しながら、くらぶのお手伝いをしたいんです!」
そういう彼女は、それまでの1年間、金沢で雑誌の編集の仕事をしていて、くらぶの商品もなんどかとりあげてくれていた人でした。

「そんなに時間あるなら、フィリピン行かんけ?」
くらぶを始めたときからいつも心にあった「くらぶオリジナル商品の開発」という夢。
彼女が一緒に来てくれれば、なにか形になりそうな気がして、そう誘ってみました。半分冗談だったのですが、
「え~、いきたいっす」

それから大急ぎで話をまとめました。
仕事を辞めた永野さん、その同僚だった中川さん、そしてくらぶを立ち上げたときからのメンバー福田さんまでもが仕事を辞めるというので「チャ~ンス!」引きずり込んで、女の子4人の旅。

今回は、訪問先は限定1ヶ所。
ミンダナオ島の児童施設‘パグサゴップ’へいって、そこで何か商品になるものを作ってみよう!という試み。
この施設へは、月々くらぶの売上からカンパをして付き合っているけれど、彼らの苦しい経営をもっと直接的に支えたいという思いのほかに、私には生意気な願いがありました。

それは、「フェアトレードで貧困層の人の自立を支える」という、私たちの活動のうたい文句の本当の中身を、体感してみたいというものです。
普段私たちは、主に東京の団体が開発したもの、あるいは欧米の団体が作ってきた物を卸してもらってそれを小売りすることが、活動のほとんどになっています。
品物はたいていは、日本の市場に合うようにと各団体が苦労を重ねているだけあって、とても魅力的です。
「かわいいねえ」「おいしいねえ」そんなお客様の言葉に「そうでしょう?」とにっこり笑って応える。

世界中からいろいろな境遇の人が作ったものがいろいろな思いの団体を通して集まり、私たちはアンカー役としてそれをお客様に手渡す。
それはそれで幸せな仕事ですが、「これが‘自立を支える’ってことなんかな…」
なにかもっと生産者に近づいてみたい、本当に「付き合って」みたい、と思うようになりました。

前回の旅行でわかったことですが、ほんとうに経済的に苦しんでいる人たちは、たとえば電話なんてもってないし、字だって読まなかったり、泥道を歩いて何日もかかる山の中に暮らしていたり、と、とかく私たちにはアクセスが難しい。
そういう人たちと関わるって、まずいったいどうするのか。
「国際交流」「協力」っていうけど、楽しいきれいなことばっかりじゃないはず。
身を持ってくぐってみればなにかしら見えてくるかも………そんな欲です。

 

 

2 ビーズクラフトにはまったミラちゃん

いつものように飛行機やバスを乗り継いでたどりついてみれば、子ども達は学校から急いで帰ってまっていてくれました。

車の音を聞きつけて、入り口からいっせいに17人の子ども達が飛び出してこちらに向かって来るさまはなんてかわいいんでしょ!
いつもならばこれだけでめろめろっとなってしまう私ですが、今回は違いました。
正味8日間しかない滞在の間に、「やること」をやらなければ。
なにかモノにして帰らなければ。
私の旅費は、くらぶの経費から出ているのだから、これは出張なのだー!と、それまでの人生で出張を経験したことのない私は緊張していたのです。

日本でサンプルになりそうな雑貨を少しづつ集めておいたので、早速、この先このプロジェクトの担当者となるらしいパイサンおじさんという人に見せました。
施設の代表者であるフビラン弁護士と2人して、彼の反応を窺います。

「どう…?」
「こんなものなら、材料だってここにあるものばっかだし、明日からでも作り始められるよ、簡単さ」
という彼の言葉に、フビランさんは「そっか~」と喜んでいましたが、
私は「そんな簡単にいくわけない…」彼の安請け合いに逆に落ち着きません。
そしてその予感はやはりあとあと当たってしまったのですが…

今回サンプルとして持ち込んだのは、ココナッツで作ったお玉、おわん、おはし、吊りかご、スプーンなどです。
私がとにかくココナッツ好きだからプッシュしたということのほかに、材料がただ同然で手に入るのが大きな理由です。
モノになるかどうかわからないプロジェクトに投資できる余裕がくらぶにはないので、まずはリスクを最小限にする必要がありました。

ココシェルを削ったり、細工したりして、それなりに売れる物をつくれるかどうか、とにかく翌日からチャレンジが始まりました。

市場にいくと、ココナッツやさんというのが出ています。
殻をわり、内側についている果肉の部分を機械で削り取って売ってくれるのです。
もちろん手でも削れますが、手間なので、こういうお商売が成り立っているようです。
日本でいえば、脱穀みたいなもんでしょうか。果肉は、煮物・炒め物・おやつ、と、なんにでも使います。油もとれます。栄養もあります。

削った後の殻はゴミだから、コンテナのなかに山積みになっています。
それを日本人の4人組がごそごそ漁って、ビデオなんかも撮っちゃってるので結構目立ちます。恥ずかしい。

何をつくるか、は、決まらないまま、始めはそれぞれなんとなくココナッツを削っていきました。
殻の外側=もけもけの繊維の部分をはがし、研磨機(たまたまパグサにあった)で削っていくと、黒い固い部分が見えてきます。
それを、つるつるに磨き上げようとするのですが、なかなかサンプルのようなつやがでません。
何種類かのサンドペーパーを試してみました。
でも傷だらけになります。

売れるものにするためには、つるつるきれいでなくちゃ……と思うのですがどうすればそうなるのかわからず、
「ニスでも塗らなきゃだめかねえ」
「それはやりたくないでしょ」
「ココナッツオイルでも塗り込んでみるか」
「おっ永野ちゃんそれきれいになってきたじ。どうやったん」
などなど、話し合う私たち日本人グループ。
しかしそれを尻目に、パイサンおじさんとその助手のロジャーは、どんどんココシェルに細工をして形をつくろうをしています。
初日は、ココナッツの粉まみれになって暮れました。

ココナッツのほかに、子ども達でも出来る物を、と、植物の繊維の間にビーズを編み込んだブレスレットをもっていきました。
これは富山のフリーマーケットで見つけたものです。
日本から運んだビーズに、みんな飛びついてきて、わ~っと群がって、思い思いにどんどん作っていきます。
あ~あ、そんなに適当に使っちゃすぐなくなっちゃうよ、ビーズ高かったしちょっとしかないんだから、もっと考えて使わないと商品になるものを作る分がなくなるよ、
と思ったのですが、子ども達があまりに熱中するから、その姿に「まあいいか、これはこれでお楽しみということで…」そう思って半分あきらめたのです。

出来上がってきた物をみて、ちょっとびっくりしました。
思い思いにちりばめたビーズが、バナナの繊維(アバカ、といいます)に映えて、やさしいんです。
こういうのは、皆好きかも。このまま売れるかも。
そう思って、女性スタッフのアルマさんに伝えました。

「え、これがお金になるんですか、子ども達がつくったものがほんとに?」
驚き、あわてるアルマさん。
「まだわかんないけど、やってみましょう、私たちはまじめなんだよ」

そう騒いでいる所に、仕事を終えたフビランさんがやってきました。
一緒に来たお友達が
「あら、これいいじゃない。へえ、売りものにするの?わたしひとつ買うわ。やっぱり2つ」
お金を受取ったもうひとりの女性スタッフ、フェリーさんは、そのお金を私に渡そうとします。
「これはあなたたちの売上だから、あなたたちで管理してください」
と返されて初めて、彼女たちにとってこの取り組みは現実味を帯びてきたようです。
翌日からは、彼女たち自身で地元のマーケットでビーズの仕入れです。

もともと、どこの国の女の子も同じ、こういうことは大好きです。だからどんどん出来てきます。
はじめのサンプルの形を離れて、花や三角の模様など、自分のデザインを試す子が出てきました。
ひもの端の処理も、きれいに留まるようにと誰からともなく工夫がされるようになり、そのかしこさとオリジナリティに私たちは感心のため息をその後何度もつくことになりました。

出来あがったものを、私たちのところに持ってきて、腕に巻いてくれます。つぎつぎ持ってくるので、福田さんの手首はブレスレットで埋まってしまいました。

パグサに入所したばかりという少女ミラは、14才ぐらいでしょうか、女の子たちのなかでも年上なせいもあるのでしょうがおとなしく、いつもどことなく所在なげにも見えます。他の子のように甘えてきたりはしゃいだりということもなく、ひっそりとした印象の子。
彼女が一番、このビーズ細工に興味を持ったようです。きれいな顔をかしげて色を選び、熱心に作っています。

「これって、とっても‘セラピューティック’だよね」
と、壁にもたれて見ていたフビランさんが言いました。
治療的、とでも訳すのでしょうか。
ここに集められている子ども達の過去は、前回の報告に書いた通りそれぞれに苛酷です。
私たちの前では屈託のない笑顔を見せる子ども達ですが、その心のどこかに、大きな怒りやあきらめ、恐怖などを抱えて暮らしています。
同じような体験を持つ子ども達が、共同生活のなかでいかにそのしんどさをシェアして、絶望も希望も分け合って、自分を取り戻し他人を受け入れ社会の中で安定して生きていけるようになるか。
そういうことのためにフビランさんはこの施設を作りました。

こういう施設が絶対的に足りないので、傷ついた子どもたちがだれの助けもないままに大人になり、ギャング化し、都会にたまって犯罪のるつぼをつくり、また社会が不安定になる。悪循環です。マニラのスラムを、「ニューヨークのハーレムよりこわい」という人もいます。

さあ、このアクセサリー作りのプロジェクトが、傷を癒すお役にたっていけるでしょうか。
それはまだまだわからないことだけれど、フビランさんの一言は私のこころに響いて、涙がでました。
いろんなリスクを抱えながら、時に命懸けでこの施設を10年間支えてきた彼女の仕事を、私はとても尊敬しているし、まあ調子のいい人ではあるけれど、その彼女のこの言葉は私にとっては一番の励ましになりました。

金沢のくらぶ事務所の写真を持っていたので、スタッフに見せました。
「ほら、これバングラデシュのスラムで作ってるもので……
これはジンバブエのエイズ患者さんのための…
こっちはインドの未亡人達が…」
写真に写っているフェアトレードの商品を少し説明すると、「ああ…」と女性スタッフ2人、ようやく私たちのやろうとしていることが見えたという感じで、大きく息を呑んだ後、私の方に向き直って、
「あなたたちには天国にたくさんの王冠が用意されていることでしょう」
とおごそかに宣言してくれたのでした^_^;;(汗)

 

 

3 災い転じたスパイスホルダー

さて、ココナッツのプロジェクトです。

お互いのアイディアの出し合いで、デザインはオリジナルでいいものがいくつも決まってきたのですが、なかなか思う通りのものが出来上がってきません。

「あっ、そんなに大きく作っちゃって、それじゃスプーンにならない」
「ちょっとそのでかい香炉、蚊取り線香でもいれるのかい~」
母屋から作業所へ様子を見に行くたび、なにか違う、というものばかり出来ていっていて、でも本人達はすっかり「できたぜ」という表情で、次にとりかかっていっています。
とにかくきれいに仕上がりません。

つやはあいかわらずなかなか出ないし、パーツとパーツをつなぐボンドが灰色にはみ出ていたり、ふちがガタガタだったり。
日本のお店の棚にのせたところが想像つかないものばかり。
でも、こちらが「う~んこれは…」と悩んでいる横で2人はどんどん先に先にと品物をつくっていってしまいます。

ひとつのココナッツシェルの繊維を落とすだけでもとても時間がかかるものだから、出来てしまったものを単に突っ返すわけにもいかないような気がします。
でもこれを買い取るの?う~~ん、買い取ってどうするの?

「ここが」「そこが」と注文を付け出すと、なんだか、彼らの仕事に片端から口をはさむような感じになってしまい、向こうだって朝から一生懸命やっているのにそれでは面白くないでしょう。
日本人がわ~~と来て文句ばっかつけて一体何ナノ?と思われたらおしまいです。
彼らには、こんな事がほんとに仕事になっていくのか皆目先が見えないだろうから尚更です。

でも言わなくてはいけないことはどんどん出てきます。時間もありません。
私は彼らにつききりになることにしました。
一緒に自分も粉まみれになり、「ほらこんな風にやればもっといいかも」的に示していけば、あちらの気を悪くさせずにこっちのいいたいことも伝わるかもしれないと思ったのです。
スプーンなら、柄を付けてしまう前に、見本の大きさとちょっと重ねてみて「あ、ちょっと大きいね(ほんとはすごい大きい)、けずろうか」という感じで。
始めは「細かいこというなあ」という表情だった二人ですが、何度か繰り返すうちに「ふ~ん、全く同じ大きさにしろってことか」と、なんとなく納得いった感じ。
(でも、なんで同じ物を作らなきゃいけないの?と思っていたかも。)

しかし。それでもなんとはなし、心元なさが残るというか、自分が空回りしているような気がしてきて……
なにかが違う、ということの連続。
どうも、意志の疎通が上手く行かない。
感覚の違いってものなのかしら…悩み始めて、あれは何日目のことだったでしょうか、ちょっと迷うことがあり「ねえどっちのデザインが好き?」とパイサンおじさんに質問したとき、返ってきたのが「イェース」という返事。
あれ、聞こえんかったんかな、もう一度、「ねえどっちがいい?…Which do you like?」
答えは同じ「イェ~ス」

英語が通じていなかったのです、
いつもきっぱり御返事がいいので、全く気がつきませんでした。今まで勘でやりとりをしていたのでしょうか。仕切り直しです。

通訳兼アドバイザーに、パグサの卒業生ティティンに来てもらうことにしました。(といっても電話があるわけじゃないので、偶然現れた所をつかまえて「明日から来て」と強引に頼んだ。)
もともときちんとした性格の人たちですから、言葉が通じるようになって飛躍的に品質が良くなりました。
磨くのも、サンドペーパーではお金が掛かりすぎるから、ガラスビンの破片でみがくことを思い付いてくれたりと、地元の人ならではのアイディアが出てきました。

思う通りにいかないことが多くても、だからこそ生まれたオリジナル商品がいくつかあります。
ひとつは、「お化けおたま」転じた「スパイスホルダー」サンプルの3倍はあろうかというでかいおたま、鍋よりでっかい?というものが、しかも10個も出来上がってきてしまって頭を抱えている私に永野さん「取っ手を直角に付け直して壁にかける小物いれとかは?」これはなかなかにかわいい、どこにもないものになりました。ひょうたんからこま。

子どもたちは、小刀で内側を削る手伝いをしたり、やすりをかけたりと周りをうろちょろしていましたが、根気のいる仕事ですので小さな子だとあまり続きません。
作りかけのココナッツを並べておままごとを始めるモネットとネネ。
「はい、ごはん出来ましたよ」ココナツに草をいれて、出来立てのおたまですくう真似。
パグサは、5月に新しい敷地に引っ越したばかりです。前よりも広くて明るい作りになっていて、私も到着したときに早速うろうろと隅々見せてもらいました。
庭も美しく整備され、植木を売る商売もすこしづつお客さんがついているようです。
裏の畑では、なすやオクラ、バナナなどが育っています。
「無農薬だよ」

転校先の学校で出来た新しい友達が遊びにきたり、と、子ども達も完全にここでの暮らしに適応しているようでした。

アルマさんが案内をしてくれ、
「きれいでしょう、広くなったでしょう、子ども達ものびのび出来て、けんかの回数も減ったんだよ」
と教えてくれました。
そして私の腕をとって
「あなたたちのお陰ですよ」
そうでした、実はすっかり忘れていたというか、言われるまで意識に上ってきていなかったのですが、この建物をたてるための資金を、くらぶの皆でいろいろやって集めたのでした。

実はこのアルマさんの言葉に、私はとても動揺したのです。まったくうろたえてしまいました。
そんなこと言わないで…アルマさんが私たちにお礼なんて言っちゃいけないと、思ったのです。

彼女は、前の報告にも書いた通り、悲しい事件をいろいろくぐってきて、でも今はここで子どもたちの過去をすっぽりと受け入れる役割を果たしてくれている。
彼女のお給料は、月にたったの500ペソ(1,700円)です。
何に使うのって聞いたら、パグサの子どもたちのおやつ代でだいたい消えるという。
「なんでそんなことに自分のお金を使うの?」
「お給料をもらったのを知ると、こどもたちがねだってくるから」
「だめやろ、そんなことしてちゃ。自分のお金なんだから、だめ!って強く言って、取っておきなさいよ」
怒る私に、
「でもね、みんなそうしてるよ。パイサンも、フェリーも、みんなお給料もらうと、こどもたちとお菓子をわけるよ。ここではみんなそうするんだもん」

こんなに貧しくて、個人の持ち物といったら聖書と服くらいで、なんの自由もない(旅行にいくとか、買い物をするとかの自由ですが)彼女たちですが、子どもたちとなけなしのお金を分け合うのは当たり前のことらしいのです。
持っているから、分け合う。いいことをするとかこどもたちのためとかじゃなくて、それは彼女にとって自然なこと?

そんな生活のなかで、私たちに感謝を示すことを忘れない。ありがたいと思ってくれている。

普通に考えれば、住む家を建ててもらえばありがたいと思うのが当たり前なのかもしれません。
ただ、私は動揺しまくって、とても顔を上げられませんでした。
アルマさんに幸せになってもらいたい。ほかの皆にも。そう思うのが精一杯でした。
幸せかと彼女に聞けば、十分足りているといわれるのかもしれませんが…。

ずっと前、カルカッタの「死を待つ人の家」(マザーテレサがつくった施設)に通わせてもらっていたとき、マラリヤにかかってがたがた震えているおばあさんの背中をさすっていたら「どうもほんとにありがとう」といわれたことがあります。
ぼろ雑巾のようになって、道で行き倒れていたところを運ばれてきた人です。
がりがりの背中をさすりながら、その美しい笑顔をみながら、この人の今までの人生はどんなだったかと考えていました。
どこまでいっても物質的に満足することをしらない自分自身の暮らし方と、なにもないところに感謝を見出せるこの人との違い。

この施設にもいろんな人がいました。
地元の言葉の通じない私たちに向かって、シーツの替え方が悪い、早く飯をもってこい、水っていってるのに聞こえんのか!!と罵倒してこられて、モウヤダ!!と思ったこともあったし、施設に通う道すがら毎日会うお乞食さんに
「おまえは毎日ニッコリ笑うだけで1度もお金をくれたことがない。そんなに金持ちのくせに1ルピー(3円)も置いてけないんやったら、もうさっさと日本に帰れ、目障りや!」
と怒鳴られたこともあります。

貧しいから美しいとかいう、うっとりした気持ちはもっていないつもりです。それに、こうやって怒鳴られれば、「いいことをしている」つもりになっている自分の内面の醜さにも触れざるをえません。
怒鳴られても、感謝されても動揺する。価値観がぶんぶん振り回されます。私は、それが嫌ではありません。いろいろな人生に触れ、こちらも、生きていくのがだんだん楽になるようにも思います。

 

 

4 スミナオの地 再訪

今回は、訪問先は限定1ヶ所!と最初に書きましたが、どうにかして行ってみたいところがありました。
フビランさんに引き取られた赤ちゃんアンジェリカのふるさと、スミナオの土地です。

山間の土地で自分達の文化とルールのもとで暮らしていたスミナオ族の土地が、まるごと、地元の政治家に強制的に収用された事件から、すでに1年3ヶ月たちました。
ブルドーザーと銃で土地から追い出され、抵抗した3人が命を落とすことになったこの事件。
アンジェリカの父も、リーダーとして抵抗したために逆に牢屋に入れられてしまい、そのままになっています。
前回スミナオの土地を訪問したときのことをもとに書いたレポートは、地元の新聞(北陸中日新聞)が取り上げてくれ、また、アムネスティのニュースレターにも連載という特別の計らいで載せることが出来ました。
5月から、いろんな人に頼んで、フィリピン政府へのアピール文も送ってきました。

土地の一部が、「先住民族居住地」として認められ、返還されることになった、という知らせはもらっていましたが、同時に、実際に人々が土地に戻って住むにはリスクが大きすぎる、バウラ側の出方がこわいから、という話もきいていました。
その後は、情報もぷっつり途絶えていました。
現地がどうなっているのか、確かめた上で、次の計画を立てたい。

フビランさんがまた連れていってくれるというので、福田さんも一緒に、一泊の予定で行くことに。また6時間のドライブかと思うとうんざりしたのですが…

アンジェリカを、連れて行くことになりました。
フビランさんに引き取られてからは、一度も両親にあったことがないのです。特に、父親は、殺人+取り壊し事件のときに拘置されてしまったために、そのあとに生まれたアンジェリカとは一度も会っていません。

2日前から、「ねえねえムツミ、父親に会わせたらどうなるかな?父親は取り乱すかもしれん…泣くかも。どうしよう?頑張って張り詰めている気持ちが切れてしまうかも。会わせない方がいいかな」
と、珍しくぐずぐずと私に相談するフビランさん。
「こんな元気に育っているんやから、きっと希望になるよ。頑張っていこうって気持ちになると思うよ。会わせてあげれば?」

今まで何人もの子ども達をパグサにひきとってきたフビランさんですが、アンジェリカだけは自分の養子として自宅で育てています。
「母親の気分って、こういうものかって、初めてわかるようになった。ムツミも養子とれば」
とうっとりした表情で薦めてきます。
ミンダナオの女ライオンと渾名されるほどのやり手弁護士が、アンジェリカのことになるとでれでれ。彼女の存在が、生きがいになりつつある様子。
(いくら欲しがるからって、あかんぼにスプライトを飲ませるな!私が文句をいうと、そうねえ、といってそのときは止めるのですが、ねだられるとまたすぐ飲ませてしまう。え~い、コラ!!)

だから、実の父母に会わせることには、複雑な心境があったかもしれません。
もし母親が、やっぱり返してくれといってきたら?もちろんフビランさんの性格なら返すでしょう。そしたら彼女自身はどうなるの?

アンジェリカはご機嫌な赤ちゃんで、5時間(道がとても良くなっていて、1時間短縮。政権が変わったお陰?)のドライブの間もぐずりもせず、大人達も道中、歌など歌いながら楽しく到着。

相手側には電話があるわけじゃないので、訪問は「突然」になってしまいます。
ぶじにお母さんと会えるんだろうか、5時間もかけて空振りになる可能性大だから、まったく、普段はケイタイなどにあまりなじまない私でも、スカイなんとかでもあればいいのに、と思っちゃいます。

 

5 アンジェリカのお母さん

まず、スミナオの土地へ。
車のまわりに、前と同じように、子どもとおとなとたくさん集まってきます。
まず子どもたちの様子に目がいきます。
1日1食にまで落ちたと聞いているけれど栄養状態は?緊張して顔がこわばります。

たいていの子どもたちは、皮膚のはりがないことは相変わらずですが、恐れていたような状態ではありませんでした。
皆、子どもらしい、ぷくぷくとした手足は保っていました。
持参した差し入れのパンにも、かぶりつくというほどではなく、落ち着いて食べていました。
今は刈り取りのシーズンなので、人の農場の刈り取りを手伝って、その10分の1を自分達の取り分としているそうです。だから今はそこそこ食べていけているのでしょう。

ただ、事件のあとに生まれた赤ん坊たち(20人いる)には、顕著に影響がでていました。
3人見ましたが、目の下に真っ黒い隈をつくり、9ヶ月なのに体重が5キロしかない子が2人。母親たちはお乳が出ないままです。

人垣が揺れて、アンジェリカの母親が現れたようです。
よし!とビデオをまわそうとするのですが、人の輪がすごくて見えません。
あ~~~御対面の場面を撮らなくちゃ~~~!!!

アンジェリカの母親は、この部族のリーダーの妻らしく、気丈な感じの人です。人前では取り乱したりすることはないのでしょう。
突然の娘との再会にも「あら、来たのね」てなものです。
アンジェリカのほうは、お母さんに抱かれてまったく自然にしていました。私が抱くといつも嫌がるのに、やっぱり母親がわかるんでしょうか??

お兄さんとの対面はもっとエキサイティングでした。
事件後2ヶ月、混乱の中をアンジェリカの世話をしたのが彼だそうですが、まるでその2ヶ月を覚えているかのように、彼の顔に手をのばし、引っ張ったり叩いたり。お兄さんはとても嬉しそう。

女王様のようにみんなに取り巻かれ、おばあちゃんやみんなに歓迎されるアンジェリカ、楽しそうにすればするほど、後ろのほうでうつろな目をして母親に抱かれているほかの赤ん坊たちの存在を、私たちは意識せずにはいられませんでした。

鉄条網の向こう側の土地…去年まではスミナオの人々のものだった土地の一部には、今、高々ととうもろこしが実っていました。
「バウラ(政治家の名前)のだよ」 手をのばせば届く距離です。
でも、こちら側では、バウラの暴力の前に無力な人たちが掘っ建て小屋でその日その日を暮らしています。

ここの土地から、どうも金が出るらしい…
そんな噂があるそうです。
採掘を始めるであろう会社の名前も、具体的に出ていました。
ごく最近、ミンダナオ島を含むフィリピンの各地方に大量の金(世界第二位とか…)が眠っていることがわかったそうです。
採掘をするかどうか決める際に、「1トンの岩から4gの金」というのが基準になるらしい。
4gとれれば採算が合うのだそうです。フィリピンから日本に輸入される金の量は、96年の資料で約3トン。3トンの金をとるには、どれだけ掘るのでしょう。

父親を撃ち殺されてしまった男の子、今3才ぐらいです。
お父さんを殺したのは誰?とフビランさんが問い、子どもが「バウラ」と答えます。
それを聞いて、私はあわててビデオカメラを構え直します。子どもが私のために、もう一度「バウラ」といってくれます。

もう何度も聞いている事実でも、撮りながら、わからなくなります。
「殺されたって、どういうこと?」
この子のお父さんは、死んでしまった。もう帰ってきません。家族を亡くした経験のまだない私だから、ますます混乱したのかもしれません。
が、人が人を殺してしまう、他人の存在を無かったことにしてしまう、それってものすごい暴力的じゃないですか。

「人生って、ひまつぶし。」
前にタイのNGOで働いていた日本人の女の子がそんなことを言っていて。
「死ぬまでのひまつぶし」って、なんとなく共感して覚えてた言葉です。
生まれてきて、生きて、みんななにも持たずに死んでいくのだから、この世でなにを得てもなにをしてもそれは死ぬまでの暇つぶしなんだと。
ほんとにそうだなと思うんですよ。
それなら、その暇の間に、がつがつと人の土地に押し入ってみたり、むりやり取り上げてみたり、挙げ句、人の人生を無かった事にしてしまう、そんなことしてどうなるのか。なにになるのか。

じゃあ、この先、日本で暮らしていく私は、この子どもの父親の血を吸った土から出てくる金と無関係で暮らしていけるのでしょうか。
できることならカンケイないことになりたい。
でも無理です。そういう物が多すぎます。

翌日は、拘置所のお父さんに会いにいくことにしてあり、フビランさんがバス代を渡してあったのでお母さんも町まで出てきました。
町には、アンジェリカのお姉ちゃんが、 事件のあとに住み込みの女中になって出てきています。
朝、事務所にやってきた彼女に、時間もあったのでインタビューをお願いしました。

朝6時から夜10時まで仕事があること。
お腹がすいていること。
御主人がいつも大声をだすこと。
下の階に住む息子が、酔っ払ってマッサージを頼んでくる事……

話しながら泣き出してしまいました。16才の子です。話してくれたことが全部本当かはわかりません。
ただ、いままで一族のまとまりのなかで暮らしてきたこの子にとって、車で40分ほどしか離れていない町の暮らしは戸惑うことが多いのは確かなようです。

大多数のフィリピン人がカトリックなのに対してスミナオ族では鶏のいけにえで大地に祈りをささげる儀式を受け継いできていることからも分かるように、彼らの生き方は独自のものです。
なんども、なんども強く思う事は、彼らにとっては土地が命なんだと。あの山のふもとの美しい土地が命なんだと。他にどこにもいくところがないのだろうと。

気丈で感情をめったに出さないお母さんまでもが隣で泣き出してしまい、私自身は、ビデオカメラのレンズを通して今いったい何をみているんだろう、悲しいとかじゃなくて、これってなんだろう、と、どんどん混乱していったように思います。
(このあと、怒ったフビランさんがこの子の雇い主の家に乗り込んだのですが、その話しは長くなるので割愛。)

 

 

6 アンジェリカのお父さん

いよいよお父さんに御対面、の前に、ちょっとお役所へ情報収集に。

実は、フビランさんをはじめとする「先住民の権利のための弁護士会」の働きかけで、スミナオの土地は一部ですが「先祖伝来の土地」としての認定を受けることができました。
つまり、彼らの土地として認められたわけです。
500ヘクタールあったうちの、ほんの75ヘクタールですが。

認定書の発行は、5ヶ月前にマニラでなされています。
スミナオ族の代表者が、そのコピーをマニラまで取りに行っています(気の毒に、どんなにお金がかかったことだったでしょうか)。
それなのに、地元のお役所では、認定書がまだ届いていないというのです。
会って確かめましたが、ほんとに届いていないようで、それがなければ何も出来ないそうです。でもマニラでは確かに発行したと。

5ヶ月もかかって届かないって事があるもんか。
「じゃあどこにあるんですか」
「わかりません」
「なぜ確かめないんですか」
「他にもいろんなケースを抱えていて、これだけに関わっていられないんです」
冗談じゃないです。それがないために、みんな毎日どんなお腹を空かせていると思ってるの。

アムネスティのニュースレターを見せました。
それまでほいほいとお話していたお役人も、目つきを変えて見入っています。
(日本語だから何を書いてあるかわからないのがまたGOOD)

でもここでこの人にプレッシャーをかけていてもしょうがありません。マニラの担当者に直接電話をすることにしました。(せめてもの腹いせにお役所の電話を使って)
電話番号がでてこないだの、と、散々待たされた挙げ句に分かった事実は、あきれるくらい意外なものでした。

スミナオ族の代表が、マニラから持ち帰ったコピー(だと思っていたもの)は、実はオリジナル、原本でした。英語で書かれていて、しかも、それをどう使うかの説明をしてくれるお役人が、マニラにもここにもいなかったのでわからなかったということなのです。

はるばる日本から出てきて、これかい。
私は切れそうになるのを必死で我慢しました。
どうして今まで誰もこの電話一本をしてくれなかったんでしょうか。
スミナオの母親たちは、この子をもらってくださいと、自分達の赤ん坊を差し出していたじゃないですか。
フビランさんを責める事はできません。
彼女だって、同じような(=お金にならない)ケースを常時8つほども抱えているそうですから。

ともあれ。
拘置所のお父さんに、いいニュースを持っていく事ができます。
認定証が見つかったのです。

拘置所の、人でいっぱいの面会場にあらわれたお父さん、フビランさんが「どう元気?」と話し掛けて、お父さんが何か答えて、みんながどっと笑いました。
何、なんていったの?
「おかあちゃんがときどきしか来てくれないから、寂しくて元気がでない、って。」
いつもきつい感じのお母さんが、旦那さんの横で、柔らかい女の人の顔になって微笑んでました。
お父さんは、前よりやせて、眼光が鋭くなったかな。

あ~あ、こんなところに一年もいたら、もう嫌になるよね。
戻りたい、戻りたい、戻りたい。
家族の所に、自分の土地に、帰りたい。帰りたい。

遠いけど、日本にも、この事件の成り行きを見守っている人がたくさんいます、
アムネスティの会員は日本に9000人いるんですから、ほら、この葉書みてください、大統領に、公正な調査と裁判を求める葉書が今もマニラに届いているはずですから、と、ニュースレターを1冊手渡してきました。
面会所の中で、人の手から手へ、皆に回し読みされて、ずっと遠くにいってしまいました。

この人が出てこれるまで、絶対あきらめるもんか。
昨日からもやもや混乱ばかりしていたけど、やっとはっきりした感情にもどってこれました。
このケースの最新ニュース。

帰国して1ヶ月経って、このケースでお世話になっている地元の人権団体からお手紙が来ました。
バウラ側と、取り壊しのときに殺人に関わった警察からも、3人の逮捕者が出たそうです。
今ごろになってなぜだかわかりませんが、金沢から皆さんが出してくださったアピール葉書の効き目もあったと思いたい。
しっぽきりのようなものかもしれませんが、一歩前進ですよね。

認定書は出てきたけれど、こんどは授与式がのびのびになっているので、まだ土地には戻れていないとのこと。
手紙と一緒に、私が置いてきた「写るんです」が同封してあり、現像したところ、地図を前に、人権団体の人からレクチャーをうけているスミナオの人たちの姿がありました。

今回1万円ほどのカンパを置いてきました。
それは、このレクチャーをしたり、地元の人たちの同意を取り付けたり動員をかけたりするための資金として、頼まれたものです。明細もきちんと書いて、送ってくれました。
たった1万円が、彼らの土地を取り戻すためにもし生きれば、こんなすごいことはないのですが。

「人権擁護」って、字面も固いし、「孤児院支援!」に比べたら地味で人の関心も集めにくい。
アムネスティの会員も、日本では減ってきています。でも、立場の弱い人に対するこんな暴力をとめることが出来なければ、パグサに連れてこられる子ども達の数を減らす事もできません。

興味をもってくださる方は、どうぞ、下のアピール文をハガキに写して出してみてください。
出してくださった方とは、近いうちに嬉しいニュースを分かち合えるかも知れませんから!

ハガキの表:

宛先:
His Excellency President Joseph Estrada
Malacanang Palace,
Manila,
Philippines
(フィリピン大統領あて)

差出人住所氏名:

(Air Mailと明記)

ハガキの裏:

/ /

Your Excellency President Joseph Estrada,

I am writing to express my deep concern at the situation which the members of the SUMINAO clan of Higaonon indigenous people are forced to face.

On 20 July, three people were killed by a 40-mandemolition team ,escorted by police and private security guards hired by BAULA Family whose members are prominent local politicians and land owners.

Suminao people have been suffering with no food ,no place to live, no place to go.
Some of them had been picketing in front of DENR asking right informations but Baula people did not arrow anyone to enter the Land even for DENRinvestigations.
Although some part of land has been reterned to Suminao,they are very much fear of being the target of Baula violence.

The clan chief Datu Lawi Candido Suminao is being detained for over one year.
I call for his prompt and fair trial and urge the authorities to investigate this case for the vulnerable people.

Respectfully,(自分のサイン)

Yours, Excellency,

ハガキの裏(日本語訳):

拝啓 今日は、フィリピン・ミンダナオの先住民族スミナオ族に起こったケースについて、私どもの深い憂慮の念を表明したく、このお手紙をさしあげることにしました。去年7月、彼らの住んでいた土地に、警察を含む40人の「取り壊し部隊」がやってきて、家や畑をつぶし、抵抗した3人を撃ち殺しています。これは、地元の政治家バウラ一族の雇っている私兵隊によるものです。

スミナオの人々はDENR(環境資源庁)の前で土地に関する情報を求めて座り込みをしていましたが、十分な説明も得られず、衣食に事欠く状況のなかで健康を害していました。DENR側は、バウラ家の妨害により調査が出来ないとも話しています。土地の一部が返却された今でも、人々はバウラからの嫌がらせを大変恐れています。

先住民に対するこのようなやり方が、貴国で頻繁に行われるのをきくのはとても残念なことです。
当局が、この人権侵害に対して公正な調査をしてくださることを心より望んでおります。

敬具

 

さらに…

アムネスティの活動にはどなたでも参加できます。個人会員ならどこにいてもお金さえ出せば入れます。

Amnesty International JAPAN – Kanazawa, Group 21

ここでさらなる情報をどうぞ!

 

 

7 クラフト最後のドタバタ

スミナオの土地からパグサに帰ってきて、早くも残りの滞在日数は正味3日しかなくなっていました。
ココナッツクラフトに気もちを戻して。

何を作るかなど、大体のことは決まって行きました。
パイサンおじさんが器用な人で、彼自身すこしおもしろくなってきたみたいで、ココナッツに藤のひもでデザインをしてみたり。盛り上がってきました。
助手のロジャーも、もともとの几帳面さを発揮。
私が「これはもう仕上がってるよね」と手を出すと、「まだまだ。」とさらに磨きをかける、といった具合で、すみませ~ん、と、もうおまかせして。

それでも、最後の2日間は、私はパニックを起こしかけていました。
最終的なデザインや、支払う労賃などを決めなくてはいけないのですが、労賃は特に、なにを基準にどう決めればいいのかさっぱりわかりません。
いろんな人に、「ここの日当の相場っていくら?」と聞いてまわったり、材料費などをチェックしたり。他にも、仕上がりの基準(買い取れるものとそうでないものの境目をどうするか)など。細かいことがつぎつぎ出てきて、きゃ~~、もう決めきれん!!

福田さんがいてくれなかったら、どたばたと結局なにもまとまらなかったかもしれません。
普段から、分野は違っても、ものを作って売るということを仕事にしている人は、やっぱり全然違うのです。
「葛葉さん(小浦の旧姓)、これとこれはノートに書いて確認をとろう。実物大のデザイン図をつけて、あとあと確かめられるように」
私があわあわとしている横で、ささささ~と作業を進めてくれました。
早い事、早い事。パニック脱出。

その資料をもとに、いよいよ労賃の交渉。
お金の話はやはり緊張します。
おかしかったのは、アルマもパイサンも、自分たちからはとてもとても低い賃金しか提示せず、「これで十分」と顔をしかめること。
こっちが、「そんなにちょっとじゃだめ」と押して、もっと高く払おうとする、というへんてこりんな交渉が続きましたが、そこにフビランさんが入ってきてからは、
「あと5ペソ高くならんの?」
「それはちょっと…」
という展開になって、
福田さん「これでなくちゃねえ~」

苦しい経営をしているフビランさんには、少しでも多く収入を得たいという切実な願いがあって、一方の私たちにも、貴重なくらぶのお金を無駄には出来ない事情があります。
お金の話って消耗するけど、でも、今までの、一方的に相手に「ありがとう」の言葉だけをいわせていた「カンパ」でのお付き合いとはまた少し違ったやりとりが、私にはとてもおもしろかった。
最終的に、合意できたときには、ほんと、一仕事した、という気分でした。
終わったのは、出発直日の夕方おそくでした。

他にも、日中にすることはいろいろあって、中でも絶対にはずせないのはお約束の学校訪問。
子ども達の教室を全部まわって、先生にもご挨拶。
子ども達はほかのクラスメートの前で得意満面。
半年前に、まだとても学校に行ける状態になかった女の子ラライが、自分よりずっと小さな子達に混じって嬉しそうに勉強している姿が、私はいちばん嬉しかった。
5、6年も遅れて入る学校だけど、楽しくてたまらないようです。
ラライは、パグサに入ってきたときには、スタッフの名前すら覚えられず、所かまわず寝転がり、庭の木を切り倒して火をつけるという事件を起こすほど心に深い怒りを抱えていた子だったそうです。
パグサに来る前の彼女の生活については、とてもここで記す気になれません。
この子も帰るところが無い子です。

その彼女の変わりよう。
帰国してからVTRを見直したときにも、あちこちに、陽気に歌を歌いながらスタッフのしごとを手伝うラライの姿をみつけることができました。
私たちに送ってきてくれた手紙は、なんとか英語で書いてくれてあるのですが、
「From Mutsumi,To Lalay」
あべこべだよ。
大笑いしながら、いとおしくて、泣きそうになります。

ビーズ細工に熱心だったミラ(また行けたよ!「フィリピンに行ってきましたその2-2」に出てきました)の変化はとくに、私たち4人の訪問組みんなを強く励ますものとなりました。
まだパグサでは新顔の彼女。
あまりに器用につくるので、感動した大人達が心から発する「すごいねえ」の言葉に照れながら、どんどん作ってくれ、日に日に明るくなり、最後のほうでは笑い声も聞かれるようになりました。

売れるか売れないか、という、ある意味で厳しい立場から子ども達の作品を見ざるを得ない私たち。その分、誉める言葉には嘘がなかったと思います。
なんでもいいから誉めるのではない。
口先だけの言葉がでる余地がないという状況でした。それは、結果的にはすごくよかったと思います。
飾った気もちでつきあえる子ども達ではないと思うから。

捨て子だった子ども達などは特に、この世に誰一人頼る人がいない、ゴミみたいに扱われて、
どこにもいくところがなかった、というところを通ってきているから、そういう子どもたちの作るものに対して、こちらも道楽でなくビジネスを成り立たせるという立場で真剣に向きあっていくことは、いまのところは大事なように思えます。
子ども達が、自分の作った物が売れる事で、本当の意味で、「社会に受け入れられている」と感じていく過程に、私たちも参加できれば。

帰国して、早速バザーなどで売り始めたクラフトは、今のところ順調に売れていっています。
もちろん課題は毎日のように出てきます。
この先、どこまでいけるかは、くらぶ内部や周りの人たちの意見をどこまで取り入れていけるかにかかっていると思います。
子ども達と一緒に、そして皆さんといっしょに、夢を見ていきたいです。

結局長くなった報告の最後に、今回の収穫のなかでも一番大きかったことを書きたいのです。
それは、一緒にいった3人のこと。

帰国してからも、子ども達の話は繰り返し、繰り返し、3人のなかで出てきています。
きかんぼのココイのこと、おしゃれなギンギンのこと、甘えんぼのネネ、目立たなかったジンジン、それぞれが、「かわいそうなフィリピンの子ども」としてではなく、一人の人間として、こちら側の心に入ってきている事が、会話のなかでわかります。
この人たちは、子ども達の存在そのものを受取ってきたのかなと思います。
それは柔軟なこころでしか出来ない事。
私は、はじめからそんな風ではなかった。

報告会で、「向こうで困った事とかなかったですか」と聞かれて、「部屋の中に虫がいっぱいいるのを見て、ああ、虫もいるもんなんだな、と思ったら、なんで日本はどこもこんなにきれいなのか不思議になった」と答えている永野さん。この柔軟性は、参人に共通していたこと。

わたしは今まで、フェアトレードくらぶとしてパグサを支援する理由として、「公益性」それもなるべく幅の広い、大義のようなものが必要だと思ってきました。
それで、フィリピンと日本との関係だとか、ODAのこと、世界の先住民問題などなどをことさらに持ち出し、あの子達とつながる必要性を訴えてきました。
でも、ほんとは、「たまたま知り合った」ということで十分なのかな、と、3人を見ていて思ったんです。

日本の独身女性と、フィリピンの孤児、今まで全く違う世界に生きてきた者どうしが、人間同士として同じものを感じるってすごい。
その力だけが、「違い」を乗り越えていける。それなしに、「国際協力」も「交流」もあったものじゃない。
こういう活動を続けていく中で、きっと、例えばマザーテレサが持っていたような、「まだ知り合っていない人」の中にも「人間」を見るということのできる力…
あったことのない人、全く意見の合わない人、まだ生まれてきていない人の中にも…が、私たちにもついていくのかな、そうだったらいいな、と。

もう何年も 一人旅しかしない私が、4人で行って、4倍楽しい道中でした。
どうもありがとう。この場をかりて。

パグサにいきた~い、という声増えてきてます。
来年の5月16日(10周年のセレモニー)前後にはまた行く事が決まってます。予定の合う方どうぞ。

1口1,000円で、「水道代」「電気代」など好きな部分をサポートする「サポーターの会」も動いています。そちらもお申し込みうけつけてます。

最後まで読んでくださった方、長いことお付き合いどうもありがとうございました。
ほんとうに。

 

 

8 おまけ ミンダナオの山の中で

スミナオの土地を離れるころにはもうすっかり暗くなっていて、弱っている赤ん坊を見たりしたからすごく疲れていたので、フビランさんが、「ちょっと知り合いのうちに寄りたい」と言い出したときには少し嫌でした。

「大事な知り合いなのに、ご無沙汰が続いているから。それに、随分年をとっちゃった人だから、会えるときに会っとかないと」
「戦争中に日本軍がおこしたカニバリズムの証言者でね。取材なんかでお世話になってるんだよ」

カニバリズムってなんだったっけ、知ってる単語だけど思い出さない…
ええと、ああ、…「人肉食」だ。

私はすごく恐かったです。
私たちは日本人だし、私の2人の祖父は両方、徴兵されて「どこか南の島」で戦死しています。だから、その家の人にあうのは本当に「堪忍して」という気持ちでしたが逃げられませんでした。
お顔を見たら、ひょうひょうとした笑い顔の人で、その雰囲気でいろいろ思い出したのですが、フィリピンで起こった戦争末期の日本兵による人肉食の話はずっと前に本で読んだことがある。
辺見庸さんの「もの食う人々」で、です。
その中に、ひょうひょうと笑う老人が出てきてた。
「もしかしたら、辺見さんの本に出てきた方ですか?」と尋ねたら、「日本人のジャーナリストが来たことがあるから、そうかなあ」とのことでした。
(帰国してから本を開いてみたら、辺見さんが取材したのはまさにスミナオの土地のあるブキッドゥノン州でした。読んだのはまだフビランさんと知り合う前だったので、気にしていなかった)

この事件については、フビランさんのお友達の岡田さんというディレクターが「極限の戦場」というタイトルで作り、サンデープロジェクトで流されたのも見てました。
それだから、お話の内容は、おじいさんが口を開く前にもう分かってました。
犠牲になった人の数は数十人に登るということ、お父さんを殺されて、その肉を食えといわれて口に押し込まれた女の人の話。

お父さんの肉を食べさせられた女性は、今もとても貧しくて、ひどい暮らしをしてるんだよね、と、フビランさんが付け足しました。
フビランさんは、弁護士が中心の日本人の団体を手伝って、証言を集める仕事をしたことがあるそうです。

ふもとのインタバス村にたどりついたら、村人が6,7人、私を取り囲み、キタンランド山になぜ登ったかを問うてきた。
私は訳を話した。
残留日本兵の「食」に少し触れた。
その時に村人が示した反応を、どのように形容すればいいのだろう。
疲労の果てに夢を見ているのかと私は思った。
村人たちは口々にいったのだ。
「母も娘も食われました」
「私の祖母も日本兵に食われてしまいました」
「棒に豚のようにくくりつけられて連れていかれ、食べられてしまいました」

「食われた」。この受け身の動詞が、私のメモ帳にたちまち10個も並んだ。
村人たちは泣き叫んではいない。
声を荒げてもいない。押し殺した静かな声だった。
なのにメモ帳が「食われた」という激しい言葉で黒く埋まっていくのが不思議だった。
老人は、戸惑う私を無言でじっとみつめていた。

辺見庸「もの食う人々」より引用

「日本兵にもいい奴がいっぱいいた。」
抗日派だったフィリピンの老人にそういわれるのは私は2度目でした。
アメリカ軍と日本軍の戦闘で、丸裸に焼き払われたまま再生していない森林もいくつもあります。
住民は親日派と抗日派に分かれて、闘ったり、密告しあったり、強制労働もあったし、ゲリラつぶしのための大虐殺もあった。
でも私は、日本軍がフィリピンにきていたことすらろくに知らないで育っています。

辺見さんの取材によると、そのとき兵隊さんたちは、飢えていた訳ではなかったそうです。
「まわりには野生の食べ物もいくらもあったのに、どうしてあんなことをしたのか」今でもわからないことだと。

お話が貴重なものだとわかっていたので、福田さんに頼んでビデオを回してもらっていたのですが、帰国してから一度も見直していません。
こちらからも何かいおうとして泣いてしまったのを覚えています。

夜遅くに、そのまま眠りたくなくて、大きな箱入りのアイスクリームを買ってきて福田さんやフビランさんたちにも一緒に食べました。

あの戦争は聖戦だった、アジアを解放した、国を守るためだったという解釈をしようという動きが日本の中でどんどん強くなってきていますね。
亡くなってくれた人たちの「英霊」を奉ろうと。戦争にいろんな局面があることは認めたいのですが、戦争をきれいなものにして残す必要などどこにもないのではないですか。

ミンダナオのジャングルに取り残された兵隊さんたち。
だれも助けになんてこなかった。深い深い森の中で。
「国」には彼らを守るつもりも準備もなかった。ましてや満州や沖縄などは、まるごと捨てられた、盾にされた。
そうやって守りたかった「国」ってなんですか。満州と沖縄は「国」ではなかったのですか。
ミンダナオの兵士さんたちは?

結果的にたくさんのアジアの国が独立した。
生き残った私たちがしなくちゃいけないことは、ほんとに「英霊」を崇めることなんでしょうか?
本当にアジアの解放を望んだのなら、どうして今も昔もミンダナオ島は同じように苦しむのですか?なぜ一度もミンダナオに調査団を送らないのでしょう?

志高く出かけたとしても、戦争にいくときには、人殺しを習っていくのだから、殺して当たり前、どんどん殺さなくちゃいけないし、毎日毎日殺して殺されて殺して、そんな中で「アジアの解放」を心に留めておける人間がいたとしたらそのほうが気の毒。
気が狂って、人の肉を食べ始めたとしたら、そっちの方がまだ理解できるようにも思えてきたり。

人殺しを教え込まれるモザンビークの少年兵の話を読んだことがあります。
猫や犬をゆっくり切り裂くことから始めると。
やらなければおまえがやられるんだと。

そうやって続けた戦争は冷戦当時の米ソの代理戦争で、アメリカが、まだアパルトヘイトを続けていた南アフリカを支援して、モザンビークの国内を撹乱していた戦争です。
モザンビークが共産圏になるのを恐れてのこと。
当時を振り返って、「あの戦争には結局なんの意味もなかった」と話すアメリカ軍関係者を、ついこの間TVで見ました。
なんの意味もなかったと。
傷だらけになったモザンビークはそのまんま放り出されて、殺すことしかしらない子ども達も放り出されて。

そのアメリカが、こんどは、独裁者退治を名目に、コソボ空爆。
アルバニア人の人権を守れと。
そんな名目には耐えられません。
モザンビークの、アンゴラの、ベトナムの、東ティモールの人たちの人権はどこに捨ててあるの?
戦争はお腹がすいていたくてみじめで悲しいもの。
どの国の、どんな立場の人が語るとしても、絶対にきれいな言葉では語らないで。

私たちがお会いしたご老人は、戦争中は抗日ゲリラで、終戦後は、残留日本兵の投降を随分手伝ったそうです。
今でも付き合いの続いている日本兵の人もいて、
「娘が日本に留学した際には身元引受人になってくれたりね。仲良くやってるよ。」

残留将兵30数人は、投降後、全員が帰国し、その後薬を持ってきたり、謝罪に訪れた元兵士もいらっしゃるそうです。
今の日本の景色のなかを、まだご存命としたらそれぞれにどんな思いで生きていらっしゃるのか、窓の外をみて考えてしまいます。
ご老人は、子ども達の世代にはこの話はしないのだそうです。