後ろのページ ’03年6月 alの七菜店長の「ナマステじゃなかったインド」

1 Don Bosc―ストリートチルドレンの保護施設

チェンナイ(旧マドラス)の中央駅を囲む塀のすぐ外側には、大都市らしくさまざまな商店が並んでいる。
屋台のアイスクリーム、全然おしゃれじゃないけどいわゆるカフェ(あま~いミルクティ=チャイやスナックあり)やサリー屋、コンビニふうのなんでも屋、車の部品屋etc…
その反対側、駅の塀を背中にして暮らしている人々がいる。いわゆる路上生活者、と呼ばれる人たち。
あまり雨が降らないせいか、テントやバラックなどはなく青空我が家とでも言おうか。おおっぴら、あけっぴろげである。

塀には洗濯物が干され、道路で火を焚き料理し、母は子の髪をいじり(ノミ取り?)おしゃべりする。その間を犬が、牛がゆっくりのんびり歩く。
ヒンドゥ教では神聖な生き物とされる牛サマは、どこへいってもよく見かけた。ゴミ箱に顔を突っ込んでらっしゃるものや、露店の野菜をむしゃむしゃやって、怒られているもの。

何故か猫がいない…
どうして?と聞くと「犬が食べちゃうからだよー」とのこと。
え!?マジすか!?とぎゃふん。

大通りから路地に入り少し歩くと、Ambu Ilam(以下AI)はあった。
看板がなければ普通の雑居ビルのように見えるそこは、ストリートチルドレン(以下SC)の一時保護施設(ドロップインセンター)。
カトリック系のNGOが運営しているが、政府や教会、お金持ちのスポンサーからの援助を受けているそう。
18年の歴史があり、児童労働をやめさせることと、SCの保護を目的としている。

スタッフの話で印象的だったのは愛情について。
「SCは、家族からも社会からも愛されないため、普通の子どもとはちょっと違います。彼らは毎日働きます。中には大人に強制的に物乞いや盗みをさせられたり、麻薬に関わったりする子もいます。そんな生活の中で、彼らは自分が誰であるか忘れてしまうんです。」

自分が誰であるか忘れてしまう…
これは私の訳し方が悪いのかもしれないが、察するに自分を見失っていく、ということではないか?

何のためにこれをしているか、何しにここへ来たか、どういう風になりたかったのか…
考えるのはめんどくさい。考えてもしょうがない。
そうして瞳には輝きが無くなっていくんじゃないだろうか。

物乞いをして生きている人の瞳を見たことがある人は分かるかもしれないが、私は怖くて目を合わせられない。
その暗い深さに吸いこまれそうで。みんながみんなそうではないけれど。

しばらくして少し離れた所にあるAIの一時生活施設(ショートステイセンター)を訪れた。
車を降りたとたん、子どもたちに取り囲まれる!
でっかい目と笑顔が迫ってきて、「What’s your name!?」の連続攻撃に遭う、遭う、遭う。
何がなんだかわからないうちに一緒に遊んでいた。

その日はちょうどAIの卒業生(?)の結婚式があるらしく、みんな髪を撫で付けて、興奮状態。
言葉は通じないまま、ビデオとカメラを「撮れ、貸せ、触らせろーっ」ともう大変!
流れる音楽に合わせて踊ったり歌ったり♪

その中でも仲間はずれにされてるっぽい子がいて、その子はちょっとハンディキャップがありそうで、「あーやっぱりインドでもそうなのかなあ」って思った。
でも、みんなみんなとびっきりの笑顔でかわいかった。
彼らが私たちに期待していたことは、ただ一緒に遊ぶことだけだったように感じた。

あの子らもストリートで暮らしてきた子らだ。
田舎から列車に乗って床掃除とかしたら食事にありつけて、物乞いをすれば200Rpくらい稼げるらしい。そのお金を遊んで使って、また稼いで…の繰り返し。

じゃあ、なんでそうして生きるのかといえば…
家が貧しいから。田舎は刺激が少ないから。親に言われたから。
理由はさまざま。
本当のところはわからない。そういう社会だから。

そういう社会なのは大人の責任だけど、あの子らもあと10年すればそういう社会に生きる大人になる。
そしたらどんな社会にすればいいかなんて、わからないかもしれない。
やり方を知らないから。
やり方を知っても、方法がないかもしれない。
そういうしくみを壊せないから。

一緒に遊んで笑った子らからは、たくさんの元気をもらった。
彼らの笑顔を思い出したら、自然に顔がほころぶ。
同時にたくさんの矛盾も突き付けられた。
私たちはどうする?何する?このまま?

そんな矛盾を抱えたまま、旅はまだまだ続く…

 

2 オーガニックコットン! 1…織りの工場

私にとってスタディツアーのメインは、オーガニックコットン製品(OC)を縫製している Asisi Garments(以下Asisi)への訪問だった。
やわらかくって肌触りがよくて着てて気持ちイイ!
そんなOCを作っている現場が見れるなんて、それこそ行った甲斐があるってなもの。

夜中にチェンナイを出て、初めての夜行列車にてティルプールへ。
インドでは、英国植民地時代に造られた鉄道網が今でもちゃんと生きている。
想像以上に広大なインド亜大陸。
長距離移動にはもっぱら鉄道が使われる。バスもそこかしこを網の目のように網羅しているが、なんせ道が凸凹、人はぎゅうぎゅう、暑いアツイ。
というわけで、お金持ってる人は大抵列車。
おもしろいことに自由席がなく、どんなに等級が低くても必ず予約しなくちゃいけないのだ。
たとえその席が3人掛けでもね。

太陽が昇る前は、ホントに南インドにいるの?っていう程涼しかった。
まだ暗いうちに、ティルプール駅で待っていたバスに乗り込んで本日の宿へ向かう。
昇りゆく太陽を隠している雲が、黒く浮かび上がっているように見えた。
不思議に懐かしい光景のような気がして目が離せなかった。
今も目を閉じれば浮かんでくるほどの、綺麗な空。

ティルプールは紡績、染色業のさかんな町で、いたるところに工場があるらしい。
その日まず向かったのはOCを生地にする工場。
部屋の中心では、大きなまるい機械がすごい音でうなっている。
その周りをぐるりと取り囲む糸の束。何個あるのか数えようとも思わないくらい多い。
その糸玉から1本ずつ糸が中心の機械に向かって出ていて機械の下の方で生地ができてゆく。
言葉で説明するのは難しいなあ…
びっくりするくらいのスピードで生地が織られてゆく。

機械のそばにひとり職人さんがいて、ときどき機械を止める。
それは数ある糸の中のどれかが切れたので、その糸玉の所に行って糸を結び、また機械を動かす。
どうしてわかるんだろう???とみんなで首を傾げてしまうくらい、ひとつの機械を囲む糸玉は多い。
織り上げられた生地は、巨大なトイレットペーパーのように筒状に丸められ、山となって保管されていた。
生地の織りムラや織りキズを調べるために、下から光を当てる機械にかけられた後、次の工場に行くまで出番を待っているのだ。

生地工場ではさまざまな生地が織られていた。Tシャツのフライス、凸凹したリブ、伸縮性のあるジャージー、ポロシャツの鹿の子などなど。
そこにはGAP(アメリカの大手カジュアルブランド)の生地もあったようだ。
大企業は生産を下請けに出し、そこからさらにまた下請けに出しということが繰り返されている。
大手メーカーの生産を担っている人々が、実際にそのような条件で働いているかとてもわかりにくく、もしそれが悪条件だったとしても企業側には責任が及ばないようなしくみになっている(怒)

生地工場では、当たり前だがたくさんの糸くずが出る。
床に糸や繊維が雪のように積もっている所もあった。
いつのまにかほうきを持ったおばあさんが現れていた。浅黒い肌に綿のサリーを着て、細い腕でほうきを動かしている。目だけは私たちの方に向いていて、じっと見ている。
私は彼女から目が離せなかったが、目を合わせられなかった。
彼女は私たちのことをどう思っただろう?

ガラスのない窓から差し込む強烈な太陽の光と、綿埃の舞う室内の影とおばあさんの細いシルエット。
私、ここで何してるんだろう…と思ってしまった。
ふと我にかえり、ビデオカメラを持ち直して機械のほうを向いた。
そしてもう一度振りかえると、そこにはもうおばあさんの姿はなかった。
なんだか幻でも見たような気分になった。

 

3 オーガニックコットン! 2…染色

生地工場で苦~い顔をしながらコーラをご馳走になり、できた生地を染める、染色工場へ向かった。
そこでもオーガニックコットン(以下OC)だけでなく、いろいろな材質の生地を染めているそう。
染色は全てコンピューターで管理されていた。
サンプルの色があれば、特殊なスコープ(?)みたいなもので染料を読みとって、同じ調合を施す…ように見えた。
そのコンピューターソフトがスイスの会社のもので、そこはもちろん染料も製造している。
どちらを使うにしてもどちらも買わなければいけない仕組みになっていた。
葬儀屋と火葬場が一緒なようなものかしら…。
まあ、とにかく便利で間違いがなく手早くきれいに染め上がる現代的な方法だった。

オフィスにはサリーを着た女性も試験管を片手に何やら色の調合をしていてかっこよかった~。
かと思えば、総合体育館の2倍くらいの広い工場ではルンギ(男性の腰巻)を身につけたおじさんふたりが10mくらいずつ生地を折りたたんで窯に入れる準備をしていたり。

機械はもちろんコンピューター制御で、8時間かけて1日3回染色するそう。
私が見た時は紺色に染めていたけれど、縦10m、幅3m(推定)もある大きな大きな機械の中で、生地が回転しながらすごい音を立てていた。染料と大量の水(9t)が高温高圧で一緒にまわっている。そのあとねじねじに巻かれた生地を元に戻す機械にかけられ、乾燥させる機械にかけられる。

と、ここまでの工程を見せてもらい、あることに気づいた。
それは、排水溝の汚さ。写真を撮ろうとしたら、職員さんに止められてしまった。
さらに外の動力室(?)から煙突が伸びていて、もくもくと煙が出ていた。
これって燃料は…と周りを見渡すと、山と詰まれた薪。
環境のことについて尋ねると、もにょもにょもにょ…という返事ばかり。
まだまだそこまでは、という印象だった。

FTco.でも、やはりそこがいちばんのネックらしく社長のサフィアさんは工場側に、環境に対する配慮を強く要請しているとのこと。
ティルプールの町にある5つの会社が合同で1つの浄水施設をつくったけれど、効果のほどは不明…
実際街中を通った時に見た川は本当に汚くて、よどんでいた。そして、臭かった。

染色工場を後にして、次に向かったのは生地の加工工場。
OCは柔らかくて肌触りがよいのが特徴のひとつだが、柔らかすぎて伸びるのが難点だった。
商品にならない…(むつみ談)

その数々のクレームを受けて、FTco.さんはもうひとつの工程を加えることにした。
英語ではcompactというのだが、生地を縮めて強く伸びないように、ミシンをかける時にスムーズに、針が折れないようにするため「プシューッ」という音のする機械(よくわからない…)にかけられていた。
工場ではどう見ても少年がちらほらいて、私たちが彼らのことを指さし話していると、大人が隠してしまうという場面もあった。
ううむ、児童労働!?

OCがAsisiで縫製されるまで、少なくとも6」つの工程を経ている。
畑で収穫→紡ぐ工場→染める工場⇔生地にする工場⇔プリントする工場→圧縮する工場→縫製・梱包する工場→フェアトレードカンパニー→al
とまあ、これだけの旅をしてお客さまの手に渡ってゆく。
その、一連の工程の中に自分もいるのだと思うと嬉しくて、この仕事が誇らしく思えるのだった。

 

4 オーガニックコットン! 3…縫製する人たち

そしてやって来ました、アシシ・ガーメンツ(以下Asisi)。
オーガニックコットンの種から綿花になって、長~い道のりを経てやって来た生地を、ここで裁断、縫製、梱包して日本へ送り出している。

カトリック修道院の活動の一環として始まった縫製作業。
当初は耳や口の不自由な女性の仕事作りを目的としていたが、年々増加する注文をこなすために、現在はパートタイムで男性の職人さんも雇われている。

夕方Asisiに着いて、満面の笑顔で迎えてくれたのが代表のシリルさん。
おひげとメガネの奥のやさしい目が印象的だった。
つい前日に赤ちゃんが生まれたばかりで、車をぶっ飛ばして往復してきたとのこと。
そして修道着に身を包んだシスターたち。
包み込むような握手と、額につけられた赤い印。
インドの歓迎の儀式のようだ。

Asisiの工場は今は鉄筋コンクリートの3階建て。
1階が裁断と梱包、2階が縫製、3階がボタンつけと品質チェックのセクションに分かれていた。
以前FTco.さんの資料で見せてもらった写真では、もっと人がぎゅうぎゅうで狭苦しい感じだったが、3階が完成したため、各作業場は広々とした印象を受けた。

大きな裁ちバサミで、カーブのかかったポケットなどを裁断したり直線のものは電動糸ノコで裁断したりするのは男性だった。
手つきを見れば一目瞭然なのだが、かなりの技術を要する様子。
また、30台以上あるミシンを操っていたのも、ほとんどが男性だった。
彼らはプロの職人さんたちで、6月から7月や12月から1月の出荷に追われる忙しい時期に、パートで雇われるのだそう。
でも、近い将来的には彼らも正式にAsisiに雇われる予定だ、という話も聞いた。

Asisiと刺繍の入った制服を着ているのがアシスタントとして作業している18歳から25歳くらいまでの少女たち。
私とそう年も変わらないはず。
最初はみんな大きな目で無表情に私たちを見ていたが、「ヴァナカム」(タミル語でこんにちは)と挨拶するととたんに恥ずかしそうな笑顔で返してくれた。
その彼女たちが持ついじらしさ、かわいらしさ!!
私たちはもうとっくに無くしているように思えた…

84人の少女がAsisiで働いていて、そのうちの15~20人が耳の不自由な人たちなのだそう。
その他の人は、身寄りがなかったり何らかの理由で親と一緒に暮らせなかったり…
現在もAsisiで働きたいという人が順番待ちだという話。
彼女たちのほとんどは、工場に隣接する寮で暮らしていて、二段ベッドのひとつとロッカーが自分のプライベートスペース。
住む所と毎日の食事、収入を得る機会や家族のように一緒に暮らす人たちに恵まれたけれど、自由に外出したり買い物に行ったりはできない。

彼女たちが今の生活をどう思っているのかはわからない。
お互い言葉も通じないし、きっと「お客さん」の私には本当のことは言わないだろう。
みんな明るくてかわいくて思い出すだけで私のほうが幸せになれるような、そんな風に見えたけれど。
通訳のローリーはこう言っていた。
「彼女たちに自由はないよね。もっと勉強したいとかもっとおしゃれしたいとか、出会いが欲しいとか、そういうことは叶わないんだよね。ここで働いていつか結婚する時のためにお金を貯めて、週に1回だけの外出が許されて。それはここがカトリックの修道院だから仕方ないんだけど…」

そう、仕方ないんだけど…
何が幸せで、どういうのがいちばんいいなんて、私たちが決められることじゃないなあ、と思った。
彼女たちは1年に1回日本からやって来る私たちを見て、うらやましいと思うだろうか?
私は彼女たちの、本当にすてきな笑顔と明るさと恥じらいを見てうらやましいと思った。綺麗だなあと思った。
いつもいつでもどこでも、人間は無いものねだりだ。

夜はAsisiの教会で少女たちが催してくれた歓迎会があった。
もう、とってもWelcome guest!!!!!てな感じで大盛り上がり。
歌あり踊りありパントマイムあり劇ありコメディありのすごいアトラクションの数だった。
私たち日本組も負けじと世界にひとつだけの花を歌ったり、にわか仕込みの空手の型をやったり…
ごはんも食べすに延々2時間半以上続いた。
彼女たちにとっては学芸会のようなもので、1年間(?)の練習の成果を発表!てノリだった。ちゃんと表彰とかあったし。

そのあとAsisiのスタッフと私たちでごはんを食べた。
インドビールを飲んだけれど、意外にすごくおいしかった。
これもまた大英帝国の影の影響らしい。
その席で、代表シリルさんにお客さまやスタッフがOC製品を着ている写真集をお渡しした。
普通の人が普通に着ているのを見るのはやっぱり新鮮だったらしく、何度も何度も見返していた。

インドに行った目的のひとつだったAsisiに行って、「フェアトレードビジネス」の難しさと矛盾を知った。
事業が大きくなればそのぶん多くの人に仕事の機会を生み出せるけれど、品質は落とせない。
忙しくなればなるほどトレーニングなどの時間が少なくなる。
当初、自立した生活をおくれるようにと思っていた人たちへのサポートが違うかたちになっていく。
マネージメントをしているシスターたちはもともとそういう仕事をしていたわけではないから、今でもういっぱいいっぱいなのだそう。
これから新しいスタッフを雇う予定だ、とサフィアさんは言っていた。
そうすると、きっともっとAsisiは大きくなっていくんだろう。
すごく楽しみなのと同時に、とても心配なのだなあ…

 

5 RTU―タオルの生産者さんたち

インドでの車移動は日本での交通概念がひっくり返る。
街中では牛サマ(神聖なのでこう呼ぶ)、人、リキシャ(自転車タクシー)にオートリキシャ(原チャリタクシー)、普通車、トラック、バス…がひしめき合って、しかも牛サマ以外はみんな追い越そうとしている。
信号は余程の大都市のメインストリート以外は無いし、スピード規制も無い(少なくとも無いのが実情)
アグレッシヴドライブにも一応ルールらしきものがあって、前の車両を追い越す前には「パッパー」とクラクションを鳴らす。
「へ~イ、ぐずぐずしてるから追い越しちまうぜ~ぃ」てな感じで。
しかしそれをほとんどみんながやるから、いや、やらなくちゃいけないような、いや、やって当たり前のようだから、街ではいつも渋滞!!
国際免許持ってても、運転だけはしたくない。
不思議と事故は見なかったけれど。

とまあ、そんな街中をくぐりぬけ、車は1本道をひた走った。
一応舗装してある道はでこんぼこんでお尻が浮くほど。
字も書けないし本も読めないし眠ることさえできず、することがないので、流れる景色をボケーッと見ていた。
畑も何にもない平野だったのがだんだん変わってきて、山が現れ、赤茶けた土に変わり、ココナツかヤシのプランテーションらしき畑が見えはじめた。
空気が暑くなってきた。肺が少し苦しい…

そしてやって来ました、RTU!
出発前にレポートまでしたReaching The Unreached(届かぬ者たちに差し延べる手?)。
ここでは2泊することになっていたから、期待は大きかった。
広い敷地はやんわりと壁で囲まれていて、入り口には門。
入ってすぐの建物が幼稚園。その向かいにマリアさまの像が見下ろす礼拝所。
そしてFoster Family Projectの各家が整然と並んでいる。
それまで見たどのインドの風景より清潔で、綺麗な空気と「気」が流れているように感じた。

RTUはイギリス人のジェイムズ・キンプトン神父が政府の援助で設立した、村の暮らしを変えるNGO。
神父が25年前にこの村に来て、病院をつくったのがはじまりだという。
今では20を越えるさまざまなプロジェクトを運営していて、その中のひとつがフェアトレードでの製品作り。
GV/FTco.さんでは現在手織りの布ものを扱っている。タオルやタオル地ポーチ、キッチンタオルなど引き出物などにも人気の商品が多い。

どきどきしながら工房へ向かう。
ここでもちょうど梱包、出荷作業に追われていた。
何しろ1ヶ月半後に日本に着いてなきゃいけないのだから。
5ヶ月前の展示会で見たストライプのタオル地がきれいに縫製され、ビニール袋に入れられていく。
ああ、感動っ!!
あ、あれはもう完売になった草木染めタオル!
あ、あっちにあるのも今は亡き地球を救えタオル!(わかる人にはわかる、マニアな内容ですみません)
壁一面の棚に、さまざまなサンプルや商品がぎっしりとストックされていた。
ここでもalにディスプレイされているRTUの商品の写真集を贈る。
スタッフの人たちも私と同じく「あ、これ!」の顔になっていた。

まだ作業中だというので、織り機の部屋へ案内してもらった。
廊下では、ガンジーの映画に出てきたような手まわし糸紡ぎ機(チャルカという)をまわしている女性が!
そこで紡がれた糸は室内の3m×4mくらいの大きなおおきな織り機に組み込まれて布地になっていく。とてもカラフルなやわらかい布で、ショールとして商品になった。
お値段なんと、900円!あんなに手間ひまかけて…

それからタオル地を手織りしている女性にも会えた。こちらは手織り機(木製)に座り、足でリズムよく踏みながら手もとの板をスライドさせて、みるみるうちにタオル生地ができていく。ジ~ッと見ていてもさっぱり原理がわからない。
織り子さん(て言うのかな?)は手を動かしつつ、恥ずかしそうにランジットを介してポツポツと質問に答えてくれた。1日8時間働いて50Rp(1Rp約3円)のお給料だけど、今はオーダーが少ないので仕事もあまりないそう。

RTUのプロジェクトの中で、フェアトレード(クラフト)部門は最優先ではないのだ。
だから販路をもっと広げたり、より質の高いトレーニングをして技術を向上してオーダーを取ったりという方向には行きにくい。そのための、スタッフの研修や時間や経費をかけられないのが現状だ。

バティック(ろうけつ染め)のタペストリーも作っているのだが、これもなかなか難しいとのこと。
なにしろ売れないのだ。
デザインはヒンドゥの神様やキリスト教の宗教画など。とても手の込んだ「作品」なのだが、インド国内では販路があまりないのが実情。
イマドキ…値段も高めだし…(インドでは)日本ではどうだ??と聞かれて、ウ~ン。困ってしまった。
日本でも昔はろうけつ染めの着物なんかあったけれど、やはり上品な柄でないと難しい。

でも、バティックの作業工程は素晴らしかった。
台にピンと張った布の上を、ろうの入った「ろう差し」の細い口がするするする~っとなめらかに滑ってゆく。
昔、加賀友禅の工房に行ったときを思い出した。
絵筆を走らせる職人さんの目、ろう差しを滑らせる職人さんの目はどちらも誇りに満ちていたように思う。
そしてどちらも時代に合わず、勢いを失ってゆくのだろうか…

 

6 RTUの教育とFoster Family Project

RTUの数あるプロジェクトの中で最も力を入れているのが教育、そして「Foster Family Project(里家族制度)」。
よく新聞の広告で「フォスターペアレントになりませんか?」みたいなの見かけるでしょう。
アジアやアフリカの子どもたちの里親になって、経済的に援助する制度。

ここでは身寄りのない母親と、身寄りのない子どもが家族として一緒に生活する。
暴力を振るう夫から逃げてきた母親、夫と死別して経済的に生活していけなくなった母親、病院に置き去りにされた子や自分で歩いてきた子、親に捨てられ、行くところがなくなった子…行き場のなくなった想いが交差する。
そこから生まれる家族の愛。
そう、ここも「Ambu Ilam(愛の家)」という名前がついている。

母親は、実子を2人まで連れて入ることができるけれど3人以上はだめなんだとか。
自分の子どもも血のつながりのない子も同じように平等に育てなくちゃいけないから。
1人のお母さんと6~7人のこどもたち。これが一家族。

敷地内はとても清潔で、整然と並んだ家々の間に洗濯物がひらひらはためいていた。
こどもたちの賑やかなはしゃぎ声と、お母さんたちの優しげな、でもちょっと恥ずかしそうな笑顔。
い~トコだなあ~としみじみ。

夕食におじゃましたサンティお母さんちには13歳のお姉ちゃんを筆頭に10歳の女の子2人、9歳、8歳の女の子、そして7歳の男の子の計7人家族。
キッチンと部屋がふたつの簡素な家だけれど、とても賑やかで和やかな「家庭」だった。
テレビもゲームもないけれど、一緒に暮らすことで彼らは一度失った、「自分の帰る場所」を大切にしている。
いろんな「もの」がないから、大事にできるのかもしれない。

RTUの柱とも言える教育は、本当に制度、設備が整っていた。
5歳以下の子どものための学校からはじまり、1~5年生(5~10歳)、1~10年生(5~15歳)、専門学校(15歳~)、コンピューターやテイラーの職業訓練…教育と昼食は無料で受けられるそう。
その資金はほとんどが寄付で賄われていて、その日のおやつは大手銀行からの寄付によるものだった。

政府の学校はあまり質がよくないらしく、放課後にRTUの学校で勉強する村の子どももいるそう。
12年勉強すると大学に入れるので、就職先が少ない農村だからか、大学に行きたい子は多いらしい。
でも、どこの子どももあまり学校の勉強は好きじゃないから先生方は授業にさまざまな工夫をしていた。
指人形を使ったり、歌と踊りを取り入れたり、とにかく体を使って勉強している光景が目に付いた。
黒板見ながら机に向かってカリカリ…は少なかったようだ。

ちょうど入学式(?)だったようで、校庭では新しく入る子どもたちが並んで座っていた。
机には先生が2人いて、なにやら書き込んでいる。
子どもたちは退屈なのか、こそこそとおしゃべりしたりしていて私たちが傍を通ると、いっそうコショコショやっていた。その姿がとてもかわいくて、オ~イと大きく手を振った。
ちょっと戸惑って、でも手を振り返してくれたのはよかったが、すぐに先生に見つかって注意されてしまっていた。
あちゃあ、悪いことしたな。
でも、そんなエピソードが心に残ったりするもんだ。

さいごにキンプトン神父との対談(?)ができて、いろんな質問をさせてもらえた。
神父には不思議な神通力?超能力?があって、地図を見ただけで水脈がわかるらしく、昔はよく井戸を掘り当てていたそうな。
それは精密な地図でなくて、村の人が手書きした簡単なものでもわかるのだそう。ほえ~スゲ~と一同感嘆。

今、いちばんの問題はAIDSだという。
インド政府が「雨の降らない地域」と認定するほど降雨が少ない地方なので、農業ができない。生活していけないので仕方なく売春する。そうしてAIDSが蔓延してしまう、というパターンだ。
実際、RTUの中にもHIVに母子感染した子どももいて、彼女はそう遠くない将来死ぬだろう、と神父は言っていた。母親はすでに他界したそう…
RTUでは性教育(AIDS)のプログラムもあり特に母子感染を防ぐための治療なども行なわれている。
これから、AIDS-HIVの問題は、インド全土でアフリカと同じくらい深刻になるはずだ、とも…

今まででいちばん大変だったことを聞いてみた。
「う~ん…特にないねえ。良いスタッフがいるし、ヴィジョンもはっきりしていてそれに向かっている。まあ、しいて言えば政府とのめんどくさいやりとりかな…」
と、なんともクール。
とても細い、ひょろっとした方だが、大きな懐を持ってらっしゃるんだなあ、きっと。

帰り際、サンティお母さんが見送りに来てくれた。
言葉はほとんど通じなかったけれど、目を潤ませながら、ぎゅっと手を握ってくれた。
彼女はまだ27歳。
なんてたくさんの命を守っているんだろう。
日本で私が抱えていた問題や衝突やプライドがちっちゃなものに思えた。
ごちゃごちゃ言わなくていいんだ。大事なことはちゃんと伝わるんだ、きっと。

手を振って見送ってくれた彼女の笑顔が今も目に浮かぶ。

 

7 SHARE―女性たち

インドの列車は大きい。
座席も窓も大きいし、天井は高く、一車両になんと30もの扇風機が設置されていた。(数えたよ…)動いてなかったけど。

インドでは見るもの全てが新鮮だったけれど、車窓から見える風景は特に興味深かった。
日曜だからか、田んぼや畑に人をよく見かけた。
水牛さまにすき?くわ?を引かせているところがあって、おお、あれが話に聞く「昔は牛に引かせた…」ってやつかあ、と感動する。

車内では、ピカピカ光るおもちゃの指輪やヒンドゥの神様ステッカーを売り歩く片足のおじさんが来たり、やかんを持った男の子が「coffee、coffee」とどなりながら車内を練り歩く。
はたまた太鼓を持った兄妹がいきなり演奏をはじめて終わったら手をにゅっと差し出して来たり。
その女の子の目の輝きは、RTUにいた子らとぜんぜん違っていた。
悲しい目だった。
思わず持っていたクラッカーをあげたけれど、いやそうだった。

列車は3時間の旅を終えて、ヴェロールに到着。
駅の改札口まで階段を上り下りしなくちゃいけないのだが、荷物も重いし混んでるので、インド人の真似してホームから線路に下りて横切って渡った。そして向こう側のホームによじ登る。日本じゃ考えられないね。駅員さんが飛んで来ちゃう。

ヴェロールはチェンナイ(マドラス)から車で3時間くらいの所だが、比べ物にならないくらい暑い。
強烈な日差しがまぶしくて、う~んインド!ってな感じ。ここでもとても良いホテルに泊まる。
高級なホテルに泊まってレストランでごはんを食べて、村の人々に会いに行ったり、活動を見に行くのに矛盾を感じた。
そういうホテルを選ぶのは安全面や衛生面、精神的なストレスに対して考慮されているんだろう。(ツアーだし)
あたりまえだけど、「お客さま」なのをどーんと見せつけられてる気がして落ち着かない。

SHAREはキリスト教医大の支援で作られた女性協同組合で、なんと3000人もの女性が参加している。
手漉き紙、刺繍、縫製、鉄加工などさまざまなプロジェクトがありPeople Treeではクリスマスのヤシの葉オーナメントやバスケットのクラフト工房とお取り引きしている。
以前は嫌がっていた男性の参加だが、今は考えを変え、男性のソーシャルワーカーも一緒に働いている。

2人1組になって村の人のお宅でランチをご馳走になった。
私はランジットとペアになったのだが、彼はまるで自分のうちにいるようなくつろぎぶり。
久しぶりにきた親戚のおうちのような感じだった。
代表のGuljarbeeさんのお宅では、ノートを広げたくらい大きいバナナの葉っぱにごはんとカレー味の野菜の炒め物と煮物と小鉢に入った辛さ調節のヨーグルトとチャツネという、いわゆる印度定食をいただいた。

イスラム教徒である彼女の家族は、おじいちゃん、おばあちゃんと息子、娘がそれぞれ3人。ダンナさんは「どこかへ行ってしまった」そうな。
SHAREで働くまでは何にもなかったし、その日食べるものにも苦労していたそう。
今は家にテレビもあるし、小さいながらも商店を営んでいる。
けど、お隣もほぼそっくりなお店をやっているから儲かるかどうかはアヤシイとこだけど…。

SHAREのクラフト工房は敷地も広く、簡素ながらとてもきれいなところだった。
入り口近くに礼拝所があり、そこへは誰でも平等に自由に祈りをささげられるよう、ヒンドゥとカトリックとイスラムの聖書が置かれていて、祭壇が並んでいた。
その「どんな神様の前でも、人は平等」という考えが村の工房の片隅に息づいていることに、とても感動した。

私たちの頭の上の、もっとずーっと高いところから見ていらっしゃる「神様」は、祈りの捧げかたや言葉や戒律の違いなんか関係なく、等しく、生きとし生けるものを見ていらっしゃるんだろうと思う。

敷地内には約50人が作業している作業部屋、所狭しと商品が詰まれている倉庫、会議室、キッチン、ベッドがふたつ置いてあるゲストルーム、そしてサンプルルーム。
ここには年に1度行なわれるデザインコンペに出品されたSHAREの女性たちの「作品」が保管されている。
ヤシの葉で編んだCDケースや旅行用バッグ、卓上小物入れにお弁当箱、中には何に使うの?と思うようなものまであった。

そしていよいよ作業場へ!
広い部屋の壁に沿って、サリーに身を包んだ女性たちがヤシの葉片手におしゃべりしながらオーナメントを作っていた。手元なんか見てもいないのに、みるみるうちにキレイにまあるくねじれた飾りができていく。

そしてひとりずつ間に入って教えてもらうことに!
私を担当してくれた先生は結構厳しくて、「ほら、そこちがう!こうやってこうしてこうなのよ!」と推測されるタミル語で、ビシバシ指導してくださった。
何度教えてもらっても覚えられず、ほとんど先生に作ってもらた…トホホ。
編物はしようと思ったこともないんだってば。

しばらくしてお昼の時間になったが、メンバー全員別れ難くて、歌あり踊りあり写真にビデオに名前や住所を書いたりと、なかなかその場を離れられなかった。

隣の人の髪を三つ編みしたり花を飾りながら、たわいもないおしゃべりに花を咲かせながら澄みきった蒼い空の下、自由で平等な社会を目指している、そんな場所で作られたクラフトたちは、作り手である彼女たちの優しいおおらかな温かさが詰まっている。
それを商品として扱える私たちと、私たちの手から繋がっていくお客さまは、彼女たちのパワーも一緒に受け取っていることになるんだ。

「フェアトレードの仕事」にはいろんなパートがあるけれど私もその過程、繋がりの中にいるんだと気づいた。
そんなのあたりまえ、だけどちゃんと理解してなかったようだ。
気づけたことがとても嬉しかったし、この仕事を誇らしく思えた。
生産者さんもそんな気持ちでいるんだろうか。

ただ座っているだけでじっとり汗が流れてくる、そんな暑いヴェロールで、私も熱い思いに燃え上がっていた。
よ~し、がんばるぞオ!!
バスが見えなくなるまで手を振って見送ってくれたSHAREの女性たちがとても愛しく感じた。
彼女たちに恥ずかしくないように、私も私のできることを精一杯やろう!と決心した場所だった。

 

 

8 VIDYA SAGAR―障害のあるこどもたちの施設

“I will never leave you nor forsake you”
君をおいていかないし、みすてたりしないよ――

ヴェロールから赤茶けた凸凹道を走り、喧騒と混沌のチェンナイに戻った。
泥のように眠り、最終日に訪れた最後の生産者団体、『VIDYA SAGAR』は、知識の大洋という美しい名を持っていた。
代表のオフィスに掛かっていた1枚の写真の下に、小さく刻まれていたメッセージ…

ここは精神にハンディを持つ子どもたちのための学校であり養護施設でもある。
額の中で笑っていたのは代表、ナタラージャさんの今は亡き息子さん。
そのメッセージを読んだだけで、この施設のやさしさ、あたたかさに包まれるようだった。

設備や規模もさることながら、ここの教育方針にはいたく感銘を受けた。
まず、学校としての機能がすばらしい。
基本的に生徒とその家族が一緒に学習する。
ほとんどは母親だが、一緒に授業を受け、家でもできるようにする―なる。
音楽や歌、お絵描きにダンス(?)(ホールで体を動かす)にはじまり、リハビリを兼ねたストレッチ法、コンピューターのプログラムも。みんなそれぞれに合ったカリキュラムが組まれている。

親御さんのためのカウンセリングやトレーニング、また親同士の繋がりを綿密にしていくためのプログラムや地域の人たちと一緒に支えていく活動などもある。
そして建物内に、『VIDYA SAGAR』のような障害を持つ人のための学校の、教職課程がある。
講義を受け、そこで実習して免許をとると、インド国内にある障害児学校の先生になれるそう。
なんと、現在日本人学生がひとり留学中だった!

22(3?)歳の彼女は、小柄な身体からは想像つかないほどパワフルでタフ。
授業を抜けて、風邪でダウンしたローリーの代わりに通訳までしてくれた。
資格が取れたらインドで働くの?と聞いたら、「いや~たぶんやんないっすね。だって大変だし。」とのこと。
でも、今は今が楽しくてしょうがないってふうに見えた。案外、来年あたり先生になってたりして…

建物は広く快適で、なんといっても明るい!
1階から最上階まで吹き抜けになっていて、天井から太陽の光が溢れている。
至るところに、生徒のものと思われる絵が掛けられていて独創的なそれは、施設の雰囲気を和ませていた。
建物の設計で感心したのがスロープ。
車椅子の子がほとんどだから当然だが、とてもゆるい傾斜になっていて、下りる時はみんな両手を離してス~ッと滑って下りているではないか!!
なあるほど~、とそんなところで感動してしまった。

おまちかねのクラフト工房の見学。
『VIDYA SAGAR』の商品といえば、葉っぱのお皿シリーズ。
これは、むつみ代表いわく「売りにくいBEST3」に入るシロモノ。
でも作っている現場を見たら、なんてすばらしい!究極のエコ商品じゃないか!!と感動した。

まず、インド東部のオリッサ州(度々サイクロンに見舞われる)の少数民族の人たちに葉っぱを採ってもらい、送ってもらう。(ここでもひとつ仕事が生まれる)
それを1枚いちまいアイロンで平らに伸ばし、丁寧にスポンジで汚れをふき取る。
古新聞や古雑誌を何枚か重ねて、いちばん上にその葉っぱをのせる。
そしてそれをプレス機にかけて、熱で押さえ丸や四角の皿になるわけだが…

このプレス機の素晴らしいところは、この作業がちゃんとリハビリになるように、手が不自由な人は手でプレスする機械を足が不自由な人は足でプレスする機械を使うのだ。
さらに、まわりの余分な紙や葉っぱはちゃんと分別され、葉っぱはたい肥に、紙は他のクラフトの材料になる。
他のクラフトとは手すき紙のカードや封筒、ギフト用の紙袋、圧縮紙製のミニBOXやオーナメント、椅子まで作っている。
ちなみに紙袋は、結婚式で使ってもらえることが多いそう。

ここで作られた葉っぱのお皿は、People Treeなどに輸出もされるが、多くは国内消費用に作られている。
だって燃やしてもダイオキシンが出る心配もないし、埋め立てたっていつかは土に還る。
実際チェンナイのスーパーマーッケットで見かけたし、ダラムサラの屋台でも使われていて、内心きゃあきゃあ言っていた私である。

この”Om Sharam”という名のついたクラフト工房兼共助センター(?)は18歳以上の人たちとその家族が利用している。
ここでの作業も、まず母親が教えてもらい覚えて、それを子どもに教えている。
また、お母さんたちはいつも子どもの世話をするのが精神的にも肉体的にも大変なため、ここに来て子どもを預け買い物に行ったり映画に行ったりと、息抜きの場―サロン的な役割も果たしている。

“We don’t care about quality!”と描かれた壁の絵。
うん、何はともあれできることをやればいいよ。
うん、わたしもそうする。

プレス機を足で踏み、英語でカウントしていた男の子。もくもくと作業をこなしていく彼に、頼もしさすら覚えた。

こうしてスタディツアーの全日程を終えた。
最後にランジットのお宅でサヨナラパーティと称して奥さんのラニさんお手製の伝統的南インド料理の数々をご馳走になる。
インディカ米(?)の玄米も食べた。パサパサ感は変わらずだったけど…
でもどれもおいしくて、これが最後かと思うと余計に噛み締めていただく。

他のメンバーはその日の深夜便で日本に帰るのだが、私の旅はまだもう少し。
チェンナイから北上し、ヒマラヤ山脈のふもとを目指す。
ちょっとだけ涙の別れ…だが、すぐに日本で会えるよ~と手を振りひとりYMCAに向かった。
10日ぶりに訪れた静寂に包まれ、頭の中はぐるぐるぐる…
明日からひとり…
列車に乗って、バスに乗って、無事にダラムサラまでたどり着けるだろうか…
不安とほんのちょっとの寂しさの中で眠りについた。

 

9 ダラムサラ―チベット難民の町

チェンナイから38時間かけて、やっとこさデリーに着く。
窓の外は雨。北は雨季真っ最中なのだ。
憂鬱な気持ちで駅を出ると、そこはプールだった。
4日間降り続いた雨のせいで下水道はあふれ、道路は膝下までの水浸し。
疲れてへとへとだったので、もうえ~わいっとざぶん。
う~ん、気持ち悪い。

インドに来て初めての強引な勧誘、接客(?)客引きにあう。
なんとか振り切って、お取引先のルンタ・プロジェクトの高橋さんと連絡を取り、チベット難民の町、Majnukatillaへ向かう。
疲れと体調の悪さで、インド最大の街デリーを楽しむ余裕もなく、ひたすらダラムサラに着くことだけを考えていた。

Majnukatillaは門と高い塀に囲まれたチベット人の居住区、といった感じ。
どっから見ても日本人!の人たちがじろじろ見るので、やはりこの人たちはチベット人…?
みんな昼間から茶店の前に座り、タバコをふかしつつ「なにもしていない」。仕事がないのかやる気がないのか、瞳は暗く、輝きがない。
悲しい気持ちになる。
どこにも居場所をつくれない、やるせなさを感じた。

デリー観光をする気になれなかったので、私もチャイを飲みながらぼけっとしていたら、珍しく話しかけてくる人がいた。(チベット人はインド人と違いシャイなので、あまり積極的に話しかけたりしてこない。遠巻きに見てることが多い)
英語が達者な彼は、Tenzinという名の30歳くらいの男性。
幼い頃、チベットから亡命してきて、つい最近までインド軍にいたそうだ。
今は政府の仕事をしていると言っていたけど、具体的には私の英語力ではよくわからなかった。

チベット人にとって、インドはあまりに環境が違い住みにくいこと、インド人は騙す人が多くて、あまり好きじゃないこと、亡命したはいいけど、職がなくてこんなふうに何もすることがなくてふらふらしてるチベット人が多いこと、何の罪かわからず、インド警察に追われ殺された友人のこと、そんな話をぽつぽつとしてくれた。
今でもたまにメールを交わす、友人になった。

壁に囲まれた空は小さくて、息苦しさを感じたMajnukatilla。
そこからバスに揺られて13時間。ひたすら北へ向かい、くねくねと山道を登る。
眠ったのか何だかわからないうちにダラムサラに到着。
目指すルンタ・ハウスは街の中心から少し離れた所に建っていた。

ルンタ・プロジェクトについて、少し説明を。
お取引先でもある「ルンタ・プロジェクト」は日本人有志によるチベット難民支援NGO。亡命チベット人によるNGO、「9-3-10(グチュスム)の会」を現地協力団体として共に運営にあたっている。
この両NGOが共同運営する「ルンタ・ハウス」は、お年寄りや身寄りのない亡命チベット人が生活している。
また、亡命してきたばかりの人や法要で訪れた人のために宿泊や食事の提供もしている。
1階には日本食の「ルンタ・レストラン」があり、ダラムサラでいちばん流行ってる店(おいしい!)。手工芸工房もあり、ここでの製品はフェアトレードで取り引きされ、「ルンタ・プロダクツ」の名で日本やオーストラリアなどに輸出されている。その他に、コンピュータークラス、英語クラスなどもある。

アムネスティのスピーキングツアーで金沢にも講演に来てくれた尼僧、ガワン・ワンドゥンさんに再会した。今回のダラムサラ訪問の目的のひとつでもあった。
ルンタハウスから10分ほど歩いたアパートに一人暮らししている。
元気そうに見えたけれど、2週間前までデリーの病院に入院していたそう。仕事もできない状態なので、ルンタと近所に住む友人のサポートでなんとか自活している。
寺院にも行くけれど、毎日は難しい様子。
彼女の病気の原因は、チベットの刑務所で受けた拷問の後遺症。
15歳の時、友人の尼僧5人とともに「チベットに自由を!」と叫びながらラサを歩いただけで、連行され、裁判もないまま3年の懲役を受けたのである。

『ここダプチ刑務所からは空しかみえない
空を流れる雲たち
それが父や母だったら、どんなに素敵だろう
監獄の友たちよ
わたしたちはノルブリンカの花
どんな雹や霜だろうが
わたしたちのつないだ手を離れさせることはできない
いつか必ず雲の後ろから太陽があらわれる
だからそんなに悲しまないで
たとえ太陽が沈んでしまっても
こんどは月が照らしてくれる
だからそんなに悲しまないで』

これは彼女たちが監獄の中で歌った歌の歌詞。
そんな歌を歌えばどんな酷い拷問が待っているか承知の上で、敢えて、歌わずにはいられなかったという。
刑期を終え、釈放されても寺院に戻ることは許されず、加えて仲間の尼僧2人が、拷問の被害のため亡くなり、仏教の修行と勉学のため、そして死んでしまった2人のことを外の世界に伝えるため、インドに亡命してきたのだ。

幸運にも彼女はインドに亡命できたし、証言ツアーで来日し、多くの人に自分の体験を伝えることができた。
しかし、彼女の将来は依然として不透明なまま。
自分の身体のことも、チベットに残した両親のことも心配だ。

このあいだ、7年ぶりにお母さんと電話で話しをしたのよ、と教えてくれた。
きょうだいがラサにいて、お正月にお母さんが会いに行ってて何度かすれ違ったのち、ようやく通じたの、と。
手紙は何度かやり取りしているけれど、中国当局に監視されてるから当たり障りのないことしか書けないし。お母さんには病気のことは告げず、私は元気に生きてますっていつも書いてたけど、いろんな人から聞いて知ってたんだ、とも。
お母さんは電話中ずっと泣いていて、話しどころじゃなかった。
「そんなに泣かないで、私は大丈夫よって言っても、ずーっと泣いててね…きっともう二度と、生きては会えないだろうけど」って言うから、そんな悲しいこと言わないで、って私もすごく泣いてしまった…

私は、どんな言葉も見つからなかった。
なんにも言うことができなかった。
ただ一緒に涙を流すだけだった。
こんなかなしい現実が、ここにはある。
比べようもないほどのかなしみが、ここにはある。
どうしてどうしてどうしてって、何度も身体の奥から溢れてきたけれど、答えは出てこなかった。

彼女はそんな私に何度もありがとうって言ってくれた。
会いに来てくれてありがとう、金沢の皆さんにも伝えてって。
たった数日ほんの少しの時間を共有しただけの人が、わざわざ遠くインドまで会いに来てくれて、嬉しい。
それが彼女にとってとても励みになることはわかる。
けれど、私はすごくくやしかった。
何もできない自分がとてもくやしかった。
でも、忘れない。絶対彼女のことを忘れないでいる。
それが今の私にできること。
こうして誰かに彼女のことを知ってもらうこと。

ダラムサラには3泊4日しか滞在しなかったけれど、幸運にもダライ・ラマ法王を拝見できる機会に恵まれた。
朝4時半に目が覚め、ひんやりとした空気の中、寺院への山道を登り、下りる。
雲が晴れて下界を見渡すことができた。
山と山との谷間にほんの少し広がる村が見下ろせた。雨を含んだ緑は美しく、空気は澄んで気持ちいい。
あの小さな屋根ひとつひとつに、命が息づいている。
とても美しい光景。

寺院に入り、心地良い読経の響きに夢うつつになりながら、法王のお出ましを待つ。
しばらくして、周りを警備に取り囲まれながらもしっかりと自分の足で歩き、静かに入っていらっしゃった。
法王の姿を拝見して、何故か涙があふれた。
うまく言葉にできないけれど、感動したんだ。
ああ、ちゃんとここにいるんだ、って。
本当に存在してくれていたんだ、って。
それが嬉しかったのかな。
そして同時に悲しかった。

どんな気持ちで今ここにいるのか、ここまで、こんな遠い地まで来たのかを考えると。
そして法王を想い、慕い、遥かヒマラヤを越えてここまでやって来たチベットの人々。
理想と希望を持って越えて来た山々の向こうのこの地は、あまりにも厳しい所だと思う。
けれど故郷には帰れない。
ここで生きていくしかない。
ここで生きていくには順応しなければ生きられない。今までを捨てても。
文化や伝統だけでなく、言葉や、表現しにくいものたち。

でも、もしかしたらそれがいちばんたいせつなもの、なのではないだろうか。

おわり


私にとって初めてのインド。
ずっと憧れていたインドとは、一味どころか十味ほど違っていたけれどとても学ぶところが多かった。
しかし、こんなトコロまで違わなくても、なこと。
それは、どこに行っても公用語であるヒンディ語のあいさつ、『ナマステ』は使わなかった。
南では『ヴァナカム』、列車内やデリーでは英語で「ハロー」、ダラムサラでは『タシデレ』…
全然『ナマステ』じゃないじゃん!!!
というのが率直な意見。
それを今回のタイトルに使わせていただきました。

ご意見ご感想お待ちしております。

七菜