フィリピンに行ってきました その一 98`2-3

1  孤児院パグサゴップ

マニラに着いて飛行機から出たとたん、アスファルトから立ち上がる熱気に一瞬くらっときました。
麦藁帽子のバンドが「ようこそソング」を奏でていてくれたりして、南国気分が盛り上がってきます。
最初の訪問地は、ミンダナオ島の孤児院パグサゴップです。

1年前、金沢市で、30人あまりの実行委員会を中心に行ったチャリティーイベント「A-LIVE」で緊急の資金援助をしたところです。
その後は、有志でつくった団体「フェアトレードくらぶ金沢」の活動のなかから少しずつのお金を捻出し、つきあいを続けてきました。
私にとっては2年ぶり2回目の訪問となります。
前はまったくのひとり旅でしたが、今回は、A-LIVEの中心メンバーだった熊野盛夫さんと、
奥さんの園子さん、それに2歳と1歳のかなちゃん・りかちゃんという顔ぶれです。

マニラからは飛行機でさらに1時間半、ダバオ空港には約束どおり、代表のフビラン弁護士が迎えにきてくれていました。
私より先に熊野さんが、「フビランさんだ!」と、見つけてくれました。
あれ、初対面なのに?と思ったけれど、そういえばA-LIVEの準備をするなかで皆で写真やスライドをみているんでした。

ダバオから車で2時間で、孤児院のあるキダパワンの町に着きます。
急激に大きくなっていっているとは聞いていましたが、町は想像以上に騒がしくなっていました。
新しい銀行やホテルが出来、大通りは車やトライシクル(3輪バイク)の排気ガスが轟々とでていて、ちょっと吸うのが恐ろしいほどです。

パグサは、敷地のオーナーの都合で立ち退きをしなければならず、その期限を控えて新しい土地に建物を準備しているところでした。まだなんにも出来ていないようにみえました。
工事は、フビランさんのクライアントさんで、自分の村に帰れない(帰ると命の保証がない)という事情がある男性が24人で、住み込んでボランティアとしてやっています。
今回は特別に、移転資金のためにとフェアトレードくらぶの皆でバレンタインチョコを売ったお金を持っていきましたが、自分たちのお金が目の前で資材に変わり建物がどんどん建っていくのをみるのは、なかなか面白いものでした。
金額は先方には知らせてなかったので、驚かれ、「これでなんとかなるよ」と喜ばれました。

フビランさんからは、チョコキャンペーンのときの写真かなにか持ってないのか、と聞かれました。子ども達に見せたい、と。
「小さな子ども達に、誰がお金を出したかなんて知らせる必要あるのかなあ」
と私の意見をいうと、
「遠くても愛してくれている人たちがこんなにいるんだということを知らせるのが大事でしょう」
とフビランさん。

新しい敷地は、大通りに面しているので、以前からやっている鉢植え売りのビジネスはもっとうまくいくと思う、と、フビランさんは考えています。
植物の世話は、子ども達にも楽しい仕事なので、私も、うまくいってくれれば・・と願っています。
ただ、前の美しい環境と比べると、ここはやはり車の音で騒々しく、まだ木がほとんどなくてのっぺりと寂しい感じ。

A-LIVEの時のVTRは持っていってあったので、見せました。再生デッキもTVもないので、
持参した(石川テレビさんの)ビデオカメラで再生して、それをかわるがわる覗きながら、説明をしました。
「パグサに来たこともない人たちが、こんなにいろいろやってくれるなんて何でだろうねえ」
と、大人たちは喜んでいました。
皆さんに、くれぐれも宜しく、いつでも遊びにきてください、とのことでした。驚いたことに、あの時送った寄付金がまだほんの少しですが残っていました(8ヶ月間分の費用をカバーしていた)。
使用した金額の明細も預かりましたよ。
子ども達は、「歓迎!」の飾り付けをして待っていました。車の音を聞いて先を争って出てきて、挨拶をしてくれました。
目上の相手の手をとり自分の額にあてるのが、こちらの子どもの挨拶です。これをされると、いつでも、自分が皇后にでもなったような気分になります。
そして、この環境!ココナツの高い木にかこまれてみてはじめて、自分がどんなにここに戻ってきたかったかを感じました。
訪問する者のなにかをとらえてはなさず、そしてずたずたになった子ども達の心をゆっくりゆっくりいやしてくれる不思議な力が、この木たちにはあるに違いないのです。
ここで過ごした経験から、
「何がなくても、自然を、木を、子ども達に」
と、心から思うように私もなりました。

2年前には武力衝突の犠牲の孤児がほとんどでしたが、それぞれに、片親がひきとりにきたり、養子にいったり、卒業したりしていて、2年前にいた子は4人しか残っておらず、
今は、武力衝突の犠牲児7人、捨て子7人、性暴力の被害児7人という構成になっています。
フビランさんの所に女性の人権侵害のケースがたくさん入ってくるようになったため、レイプの被害にあった小さな女の子たちの入所が増えていました。
そのうちの1人は、私たちの着いた翌日に裁判所での証言を控えていて、熊野さんが運んだ古着のプレゼントの黒い刺繍のブラウスを着て、出かけていきました。

十分に食べさせ、遊びを保証し、リラックスした空気のなかで同じ体験を持つ子ども達と過ごすことで辛い経験から立ち直ってもらうという以前からのパグサの方針が、この女の子たちにもまた当てはまります。
中には父親からのレイプが8歳のときから続き、5年以上たって耐え兼ねて逃げ出しここに引き取られた子がいました。
当初は場所を構わず寝転がったり他人に対して手荒く大変だったそうですが、ほんの数ヶ月ここにいただけで今はだいぶ明るくなり、手伝いをよくしています。
初対面でいきなり理香ちゃんをさりげなく抱っこして、理香ちゃんが泣かずになついていったのでフビランさんも驚いていました。
(フビランさんが手をのばしただけでひどく泣かれてしまったのに。)

ダンテ、ブレンド、レナンの3兄弟は、他の家族全員が殺されるのを目撃しています。
親の首がころがるなかで、自分たちも大きな傷をおったまま暗闇で一晩を過ごした経験から、2年前にはめったに笑うことがなく他人をひどく警戒する子たちでしたが、それぞれに2歳ずつ大きくなり、今では遊びのなかで大声ではしゃぐこともあります。
末っ子のレナンは、初日から私にいたずらをしかけて「や~い」と喜ぶまでになっていました。

財政の厳しい中で、子ども達は学校・幼稚園へもいっていました。
ちょうど進級のための試験が近づいていて、小さい子たちもテストの前の日だけですが、めずらしくスタッフと一緒に何十分か勉強などしていました。
結果次第では、落第することもあるそうです。
出来る子もいればぼおっとした子もいますが、質問されれば答えが分かってもわからなくても「はあ~い」と自分にあててほしがるのは日本の子どもと同じ。
覚えのはやい少女メイジョイは、私の教えるあやとりや「アルプス一万尺」などの遊びを片っ端から覚え、つぎつぎにせがんできました。
ひとつできる度にぱあっと目を輝かせて喜ぶのです。

お手伝いの時間以外はひたすら遊び・遊び・遊び。
笑い声が絶えず、スタッフのいないすきには取っ組み合いの噛みつき合いの大喧嘩もありました。
気分がのってくれば夜にはそのへんの枯れ枝に火をつけて勝手にたき火をして盛り上がったり…「毎日が少年自然の家」(熊野盛夫)
ここの子ども達は、トラブルのなかで泣くことがあまりありません。
泣いてどうにかなるわけじゃない、といったん知ったからかもしれません。ある面で年不相応に物分かりのよいところがあるのです。

小学校にいくか、と誘われて、フビランさんと出かけました。
子ども達の教室を訪ねて歩きました。
みんな私たちに気づくとびっくり、めちゃめちゃ嬉しそうで、(この外国人のお客さんは、うちのお客なんだよ!!!すごいでしょ!!!!)と、他のクラスメートに対して誇らしくてしょうがない、といった様子でした。
レナンは、私たちを見て照れて黙って下を向いてしまいましたが、下校時間になって飛んできて、手をつないで帰りました。

フビランさんが校長と話があるというのでついていったのですが、話はものの2分、しかも私たちを紹介しただけ。
それでもパグサのスタッフの一人が「これであの子達も安心ね」というのです。
外国人が支援をしているということを、周りに知らせておくことで、子どもたちを守ることが出来る、というような意味らしいのですが。
‘いじめ対策’でしょうか、それともゲリラ活動がまだ散発しているからでしょうか。

「私たちが学校にいくと、孤児院にいるってことが皆にわかっちゃうから、特別視されちゃわないのかなあ、嫌じゃないのかなあ?」気になっていたので、フビランさんの事務所のアシスタントのベンジくんに聞いてみました。
「親がいないのに学校に行けるなんて超ラッキー、って、みんな思うだけだよ」とあっさりいわれました。
学校に行けない子も多いのだから、そんなものでしょうか。

公立の学校は、授業料はただだけれど教育の質は悪いと、人々は嘆いています。
朝でかけていった子ども達が、しばらくしたら帰ってきて 「先生がお休みだから今日は学校ないの」ということもあります。
お金のある人のなかには、子どもを私立の学校に入れる人もいます。
パグサ開所当時からのメンバーで、12歳からずっとパグサで育ち、今はドイツ人夫婦からの奨学金でこの町の大学にいっているティティン(22歳)によると、彼の大学では汚職があるということです。
ちゃんとした予算が政府から出ているのに、重要な科目に正規の先生がいない(配属されていない)ので、臨時の先生が代わりをつとめているということです。

フビランさんのもとで育っただけあるのか、ティティンはこういうことに敏感で、毎週日曜日には学生仲間とミーティングを開き、このことについて話し合いを重ねているようでした。
(「うちの部屋を貸してるんだよ~」と、嬉しそうなフビランさん)

 

 

 

 

 

ティティンに、マイクをむけてインタビューをしてみました。
私とは仲良しですが、話をちゃんと聞くのは初めてです。
M:むつみ T:ティティン

M:今の生活はどんな感じ?
T:今は、奨学金で勉強できるから幸せだよ。
学校は5年間のコースで、今はまだ3年分の約束しかもらってないんだけど。

M:もしこれ以上お金がでなかったら?
T:そしたら「勤労学生」になって、自力で卒業する。仕事を探して。

M:卒業したらどうするの?
T:運良く仕事が見つかれば、子ども達のためにも援助をしていくことになってる。
それは奨学金の契約のなかでも決めてある。パグサの子どもたちとは限らないけど、同じような、武力衝突の犠牲児のために、なにかしていくことになってる。
給料が出るようになれば、少しでもお金を子ども達のために出せるし、もし普通の仕事が見つからなかったら、NGOの職員になって、子ども達への援助をしていきたい。
そういうことは、ずっと自分の夢でもあったし。

M:パグサでの思い出を、話してもらってもいい?初めてここに来たときのこととか、覚えてる?
T:ここでは幸せに暮らした、っていえるよ。内戦の犠牲児として保護してもらったし、車の運転とかペンキ塗りとか、いろんな仕事をここで覚えた。内戦でばたばたのド田舎から来たけど、ここで「善き市民」になるべく育ててもらったよ。
初めて来たのは、’89年の9月だった。政府軍とNPA(新人民軍)の衝突があったんで、家族で近くの村の小学校に避難した。TFDPっていう団体の人が来て、パグサにいけば勉強も出来るっていったから、その人といっしょにここに来たんだ。兄弟3人で。
M:避難所には他にもたくさん子どもがいたでしょ?なんで3人だけ選ばれたの?
T:僕らがいちばん貧乏で、状態が悪かったから。このパグサを作ってくれて、Ate.Sol(フビランさんの愛称)には感謝してる。

M:他の子ども達と、けんかとかして大変だったことない?
T:けんかなんてしなかった、いっつも楽しかった、幸せだったよ。
M:うそだよ絶対けんかもしてたはずだよ!
T:まあね子どもだから兄弟喧嘩ぐらいはしたかもね、でも覚えてない

M:家族が恋しくなったことない?
T:あった……ね。でも、ああいう状況だったし、現実を受け入れよう、と、自分で思ってた。
ここに来たのは、自分のためと、家族のためでもあった。勉強をちゃんと終えれば、家族を助けることもできるしね。父親は、斧なんかを作る仕事をしてたんだけど、NPAのサポーターの容疑をかけられて、2回投獄された。
2人の兄も。それで、土地を捨ててよそに移った。これ以上いたら危ないと思って。

M:なんでそういう容疑がかかったの?
T:しらない。マルコス政権の時代だったから、だれにでも疑いがかかってすぐ牢屋に連れて行かれた。
父親は土地を守る農民運動をしていたけど。だから疑われたのかもしれない。知り合いを頼ってよそに移って、そこでは名前を変えて暮らした。「アイデンティティを全部消せ」と言われたから、家族全員名前を変えたよ。9歳のときだった。僕はGilって名前になってた。

M:12人きょうだいなんでしょ?!間違えずに覚えられた?
T:覚えたよ。「ここに居たいなら、間違えずに覚えなきゃだめだ」といわれた。弟たちも。
一番下は3歳ぐらいだったけど。それが現実だったから。それ以上軍隊に追われないためにはそうしなくちゃならなかった。

M:フィリピンの状況ってのは、その後よくなっていっていると思う?
T:うん、マルコス時代はめちゃくちゃだったから、今はよくなってるよ。でも問題はいっぱいある。
民主主義の時代がやってきたけど、政府はちゃんと仕事をしてない。土地改革も進んでないし。
IMFへの返済も問題。貧富の差はよけいひろがってる。この町でも、たぶん子どもの半分は学校にいけてなくて、ドラッグにはまってる子も多くて問題になってる。ラモス政権が公立の学校を私立に変えちゃってるから、貧乏人は進学できなくなってきてる。これが大きな問題。

パグサの申し子、期待の星のティティン。
でも、全部の子が彼のように育っているわけではもちろんなくて、例えばティティンと同期だったロブレンは、同じように奨学金をもらっていたのに、ある時期から大学へ行かなくなり、なにか悪い遊びを覚えて出歩くようになったということです。
それが周りに知れて送金をストップされ、本人は「もう一度学校へ戻りたい」といってきたのですが、「与えられたチャンスを生かさなかったのだから」とフビランさんにも断られ、今はダバオで暮らしているのではないか…ということでした。
元気にしているでしょうか。無事に生計を立てていっているといいのですが。
パグサゴップに話を戻すと、2年前には7人いたスタッフが、今は2人になっていました。
ドイツの団体からの資金援助がストップした時点で、正規のスタッフは全員やめて、今は、住み込みの女性と、フビランさんの義理の妹の2人で、切り盛りをしています。
「たった2人で全部を見るのは大変…」と2人ともため息をついていましたが、私の見た感じでは、たいして荒れてもいませんでした。
子ども達は、時にはだらける場面があったにしても、以前と同じように自分たちで起き、当番の仕事をし、水浴びをして、学校へ行っていました。
食事の用意も、子ども達ですることが多くなっていました。
住み込みで中の仕事を全部やっているアルマさん。とても控えめな人です。
一目見ただけで、優しそうな、考えの深そうな人だという気がしました。
フビランさんは、彼女をとても信頼しています。
スタッフが7人いたときよりも今の方がずっと安心して任せられる、というほどです。彼女は夫がモスリム教徒だということを知らずに結婚をし、男の子を2人もうけて暮らしていましたが、モスリム勢力と政府軍との衝突で夫が亡くなった時に始めて、彼がモスリム側の兵士だったということを知りました。
夫を亡くした後、さらに上の子をモスリムのゲリラ兵士としてとられ、彼を取り戻すために大変な思いをしてきました。
無事に手元に戻した後は、2人をパグサに預けて農場などで働いてきましたが、まともな賃金がもらえず、それならばということで、月300ペソ(1,000円ほど)という金額で、今は20人の子ども達の食事をつくったり、洗濯をしたり、という仕事をしています。(「来月から500ペソになるんだって!」と、私が出る前の日に嬉しそうに教えてくれました)
彼女にもインタビューをしました。自分のことを話すのは嫌だろう、と思っていたのですが、随分打ち解けてきてくれていたので思い切って頼んでみました。「あらあら、私の顔が日本に届くのねー」と、笑ってOKしてくれました。
M:むつみ A:アルマ

M:長男をゲリラにとられたあと、どんな気持ちでいたのか教えて。
A:うーん、なんていえばいいか…もう自分は死んだようになっていた。胸がいたくて、昼も夜も泣いてました。どんなふうに胸が痛んだか…どんな種類の痛みだったかって、それはとても言葉では表現できません。
世界がこわれてしまって、もう希望なんてなにも残ってないと思った…もう私には一生「喜ぶ」という感情が戻ってこないんだと思いました。

M:ココイ(長男)は、一時洗脳されてたっていってたよね。
A:そう。私に向かって、「おまえはいい母親じゃないから、もう自分の親ではない、もういらない」というようになってしまった。MILF(モスリムのゲリラ組織)にいれば、皆が大事にしてくれて、必要なものはなんでももらえるんだ、と信じ込んでいった。

M:でも実際には?ココイはゲリラ軍で、どんな生活をしていたの?

A:不潔な場所に住んで…銃がそこら中にころがっているような環境だったの。
ココイは、そういうものがどんどん好きになっていって…ほかの人たちに対する態度もよくなくて…水牛を盗むことを教えられて、それがあの子の仕事になっていた。

M:取り戻すのは大変だった?
A:軍隊と、警察と、地区のリーダーに話をしにいって、リーダーがゲリラ側と交渉してくれることになったの。
でも3,500ペソの身の代金がいることになって、お金をつくるのに必死で働いた。農場で、ものすごく働いて、節約して…下の子にあげるミルクも節約して。引き取りにいったときは、外では警察がいざというときにはタンク車で攻撃をかける準備をしてひかえていたの。その場でお金を渡して、子どもを受け取ってきた。そのあとはココイに、私がほんとに彼のことを愛してるんだってことを、少しずつ時間をかけて、話して、示していったの。私がほんとの母親なんだって…。

M:そのあとの生活は?

A:ちいさなニッパ小屋をたてて、農場で働いてた。6年間ほど。日当は60ペソ(200円)。
そこから3人分の食費を出して…嫌だったのは、そこには男がうろうろしていることだった。MILFの兵士もいて、私に結婚しようといってきたり…
安全が確保できなかったから、ここにききたの。MILFの中には、下の子にお金を渡して誘惑する男がいたし。この子も連れて行かれたらどうしようかと恐ろしくて……。また同じ事がおこったら、と思うと…。
上の子が連れて行かれたとき、会いにいって、私はレイプされたことがあるの。子どもを帰してほしければ、って。
あんなことは二度と起こってほしくない。それで、ここに来ることを決心したの。ここにいれば、子ども達は安全だし、私も。

M:今の願いと、これからの夢は?
A:子ども達が健康でいることと、ここで学校をちゃんと終えてくれること。
私には自力で学校へいかせてやるお金がないし、渡す土地がないから。それだけ。
自分のことに関しては、もう夢はないの。もう年を取っちゃったし。
M:年って、え~、今いくつ?
A:34歳
M:まだ若いよぉ~!私と変わらないじゃないの!!

初めのうちはうつむきながら質問に答えていたアルマ。
だんだんとカメラを見据えて、目に強い力をこめて話してくれました。
辛い思いをしたひとだけがもつ強さを、この人にも感じました。

 

2 土地を返して! 人権弁護士の仕事

フビランさんの法律事務所兼自宅は、町のメインロードから道一本はいったところにあります。
パグサの経営難対策として、通りに面した一室を貸しだすことに決まっていて、その看板が準備されていました。以前は法律関係の図書室だった部屋です。
彼女は、忙しいスケジュールをぬって、よくパグサに出かけているようです。今いる子どもの名前や状況はもちろん、性格や趣味もよく把握しています。
「弁護士の仕事だけしてると飽きちゃって」などといいながら、資金集めにも奔走しています。彼女は国際的にも有名な「人権弁護士」ということになっています。
「人権弁護士って、弁護士はみんな人権のために働くのが仕事なんじゃないの?」と初めは私も思ったものですが、彼女の役割はとても特殊です。
立場が弱くて、まともに弁護士料をはらえないような人たちも、彼女のまわりにあつまってきます。(料金のかわりに鶏を手渡しているところもみました!小説みたい。)あるとき中年の夫婦がやってきてフビランさんに見せていた写真を、なにげなく見てしまって私は我が目を疑いました。
床に立て膝をし、首はロープで天井につられていて、両手首を縛ってある人間の死体(たぶん焼死体)でした。
それはそれはリアルで酷い写真だったので、わたしは気分が悪くなり、機嫌まですっかり悪くなって、これはなんなんだと聞くと、この夫婦の息子さんの写真で、警察が「自殺だ」ととりあってくれないのでここに持ってきたということ。
この息子さんは、村長さんの秘書をしていたが、彼の前任者もその前任者も変死をしているのです。
汚職かなにかあるのだろう、それに気づいたものは消されているんじゃないか、と、フビランさん。
そんなケースがつぎつぎに入ってきて、それをこなしながら常に明るい彼女のバイタリティーは、実際すごい。

私たちが着いた日のことでしたが、「実はとっておきの話があるのよ~」うひゃひゃひゃひゃ~と笑う彼女に連れられて2階に上がってみると、蚊帳の中にきれいな赤ちゃんが眠っていました。
「私の娘で~す」
まさか50歳での高齢初産???未婚の母?
びっくりしている私を見てまた嬉しそうに笑って、
「養子にしたんだよ~」
アンジェリカという女の子で、スミナオという先住民族の長の末娘です。
父親は、今牢屋に入っています。事の起こりはこうです。

去年の7月、スミナオの土地に、40人の「取り壊し部隊」が、フィリピン国家警察と、地元の有力者‘バウラ一族’の私兵に付き添われてやってきて取り壊しを始め、抵抗したスミナオ族を3人を撃ち殺しました。死体に近づこうとしたほかのメンバーも、警察に蹴られるなどの暴行を受けました。
このときアンジェリカの父親も胸を撃たれ、ほかにも8歳の女の子が頬を撃たれてけがをするなどしています。
病院で傷の手当てをうけたあと、彼は「殺人容疑」で刑務所に収容されてしまいました。土地を取り戻そうとしたためです。
しかし3人を射殺した警察当局のほうには、なんの処分も出ていません。

9月に、2回目の取り壊し部隊が、重装備のうえにブルドーザーとチェーンソーをもってやってきて、残りの家などを壊していきました。
この騒ぎの最中に、アンジェリカの母親に陣痛がきて、男たちが急いでつくった小屋で彼女は産みおとされました。
この日以来、スミナオ族の人たちは、土地のすぐ横の道路わきに仮の住居をたてての生活を強いられていて、半数以上の世帯は、すでにあきらめてこの地域を去っています。
この事件が起こったとき、スミナオのメンバーは、すぐにフビランさんのところに助けを求めにきたそうです。
トライシクル(三輪バイク)に乗って深夜0時に事務所に現れ、事情を話した後、「泊まっていきなさい」とすすめるフビランさんに「3人殺されたし、残してきたメンバーの身の心配があるから」といって引き返していったということです。
アンジェリカの母には、夫の代わりに一族のリーダーの1人としての勤めもあり、9人きょうだいの末っ子のアンジェリカの世話をみきれなくて、フビランさんが引き取ることになりました。

バウラは、一帯の土地をたくさんもっている大地主の一族で、町長や判事などの役職もいくつもつとめていて、この地域を「バウラ王国」と呼ぶ人がいるほど。
スミナオの土地に関しては、これを「自分たちの土地」と主張し、スミナオ側を「不法侵入者」として追い出しています。
実はバウラは確かに、お金を払ってこの土地の所有権を買っています。
一方のスミナオ側は、この土地を「アンセストラル・ランド」…先祖伝来の土地として、土地の権利を主張しています。
もうすでに何世代にも渡って、今の行政の仕組みが出来るずっと前からここに住んでいたので、登記などはしてありませんでした。
しかし、「アンセストラルランド」としての概念を適応してもらうため申請の手続きを始めたところ、このような襲撃をうけてしまったのです。

このケースは、国際的な人権擁護市民団体のアムネスティ・インターナショナルも深刻な人権侵害のケースとしてすでにとりあげていて、世界各国のメンバーから問いあわせの手紙などがフィリピン当局に送られているはずです。
ちょうど、ドイツから、アムネスティのボランティアメンバーがこのケースについて調査に訪れていて、現地を訪ねるというので私も連れていってもらうことにしました。
2泊3日、片道6時間の長距離ドライブです。
道がものすごく、ワゴンがガツンガツンと上下して、緊張していないと頭をあちこちぶつけそうになります。こんな道を、スミナオの彼らはトライシクルで夜中にやってきたのかと想像して、頭がますますイタくなります。

着いてまず、アンジェリカの父親ラウィ・スミナオさんが入っている牢屋に面会にいきました。
一応入り口で荷物の検査はあるのですが、そこを過ぎると壁もなにもない、テーブルと椅子だけのひろい面会場(室とはよべない)があり、入所者と面会者と入り乱れてなんだか開放的な?場所です。

ラウィさんともうひとり、収容されているリーダーの人がやってきました。大きな目がアンジェリカのものと同じです。
フビランさんがアムネスティのメンバーを紹介し、彼らが来た目的などを話しました。傷口なども見せてもらいました。腕の傷がとくにひどく、ふかくえぐれたままでした。
2人とも、ほとんど口を開かず、時折相づちをうつだけで表情も変わりませんでしたが、フビランさんがアンジェリカの写真を見せたときは、ラウィさんの顔がほっくりとほぐれました。
写真を手にとって、あれは喜びなのか悲しみなのか、希望なのか絶望なのか、私にはわからない目の色で、みつめていました。

スミナオの人々がピケをはっている現場にいってみました。
雨の中、DENR(Department of Enviroment and Natural Resouses、環境資源庁)の建物のまえで、ビニールと竹でつくった小屋に30人ほどでしょうか、もう2週間になるらしいのですが、抗議の座り込みをしていました。
地べたにうすっぺらいシートだけですから、ごつごつととても痛いのです。
夜は寒くないですか?ときいたら、「Very.」と、ひとこと、返ってきました。

差し入れをしたあと、DENRの責任者サントスさんに会うことになりました。スミナオ側の情報では、彼らがもともと住んでいた土地140ヘクタールのうち、バウラファミリーが登記したのは60ヘクタールあまり。それならばあと80ヘクタールは残っているはずです。
しかし現実には全員が土地に戻れないでいるのです。
そこで、はじめに、いったいどこからどこまでがバウラの土地とされているのか、を質問することから始めましたが、しょっぱなから信じられないことに、DENRも正確な情報をもっていない、というのです。
「なぜ調査をしないのか?」という問いには、「人の土地に入って調査をするのだから、‘人権侵害’にならないようにこちらも法的な手続きを踏むために弁護士を要請中」だというのです。
公の機関が、私有地の調査をするのに弁護士がいる、というのは、私たち外国人にはよくわからないのですが?と突っ込むと、返事は返ってきませんでした。

そのかわりに、
「この土地は川や谷もあって危険な個所もたくさんあるから、勝手に入ると危ないですよ」
という話になり、これには、同席していたスミナオのメンバーが切れて
「私たちはそこで魚をとり、山猫を追ってくらしていたのです。どこが危険個所か知りたければ私の部族の者がそちらに教えてあげられるのに!」

いつもはおしゃべりなベンジくんが、この日は全く口をきかず、DENRの役員の話を鋭い視線で聞いていましたが、この会見が終わって部屋を出てから私に「3人死んでいるのにね」とぽつり。
結局、みんなバウラが恐いのです。
実際、最後のほうでは、DENRのサントスさんからも、「じゃあ私はどうすればいいんですか」「バウラは私兵を雇ってるんですよ」と、
弱気な発言が。「私にもサポートが必要です」とも。外国人が3人も来てVTRをいくつもまわし写真をとるので、彼にも相当なプレッシャーだったようです。

この後は記者会見をしました。
地元のラジオ局と新聞社の支局から人が集まってくれ、始まりました。状況の説明のあと、記者のほうから質問がいくつか出ました。
ほとんどがタガログ語とセブアノ語、ときどき英語と言う感じで進んだので、私には何を話しているのかほとんど分かりませんでしたが、1人の記者が、「何故あなたが遠くからはるばるとこの町のケースを扱いにきたのですか」というような質問をしたらしく、それに対して「それでは聞くが何故スミナオの人々がわざわざ6時間かけて真夜中に私のところまで助けを求めにきたのか?この町には、弱いものの声に耳を貸す弁護士はいないのか?」と、フビランさんのいらいらが爆発。
その声に押されるようにして、ジャーナリスト側からも「これは私たちの町の問題なんだから、みんなでしっかりフォローしていかなくては」というような声があいつぎ、会見は大きな拍手と感動的な雰囲気のなかに終わりました。

準備らしい準備もせず、ほとんど思いつきで行った会見でしたが、各ラジオ局の代表が集まり、1時間生放送で流れました。
「これも外国人のお客さんがめずらしいからだよ」とフビランさんはいいます。
確かに、関係者がひどく私たちを意識しているのは感じられました。
アムネスティのユーケンさんも「私はアムネスティのロンドン本部から派遣されて来ているんだ」と何度も強調し、フビランさんがそれに合わせて「もうすでに何通かマニラに手紙が来ているし、私も近いうちにラモス大統領に会って話をしようと思ってる」なんてたたみかけるのでお役人はびびるし記者たちは勇気づけられる。

考えてみれば、小さな町の行政にとって国際的な世論が大きなプレッシャーになるのは当然のことですし、声が大きくなれば政府を動かすこともできる。
アムネスティの役割は、それに尽きるわけです。
強大な力をもつバウラファミリーに対して、いくつも訴訟を起こすわけですから、フビランさんにとってはけして安全ではない仕事です。
それだけに、私たち「外国人のお客さん」も、単なるお客が自国の経済力をかさに着ておどしをかけた、ということに終わらず、実際に自分の国で声を起こしていかなくてはならない、と感じました。

大成功におわった会見のあとの車の中は、おおはしゃぎでした。
「私たちはよくやった」「いいチームワークだった」と、みんなとても満足していました。
事態はいい方に動いていくように感じたし、個人的には、自分の存在が当局に対して少しでもプレッシャーになったのなら、こんな自分でも生まれて今まで生きてきてよかったのだーなどと思うほど、嬉しい気分になっていました。

昼ご飯の後、スミナオ族の土地を実際に見にいきました。車でほんの40分ほどのところでした。
山のふもとに広々と見渡す限りの土地が、鉄条網でしきられ、その横に延々と、追い出された人々の仮の住居が並んでいます。
「家」とはとても呼べない、ぼろぼろのビニールと木切れを合わせてつくったもので、風にゆらゆらと揺れて、かなたに見える美しく黒々とした力強い山の稜線とは悲しいコントラストを描いています。
つい最近まで人々が住んでいた所なのに、住居や畑のあとは影もありませんでした。
「あそこでアンジェリカのお父さんは撃たれたんだよ」と言われる方をみても、棒杭一本が残っているだけでした。

「ブルーガード」と恐れられているバウラの私兵が、銃を持って敷地内を歩いているのが見えました。ビデオをとる手が、すこし震えました。

子どもも大人も、たくさん集まってきました。
子ども達は、一見ぷくぷくとかわいらしく見えますが、手をとるとしわしわの、老人のような皮膚の子がいます。栄養失調が進んできているのです。
何人かは、学校で「スクウォッター(不法居住区の人間)」と呼ばれていじめられ、それがつらくて登校しなくなったということでした。
生まれたばかりの赤ちゃんがいましたが、お乳が出ないので米の煮汁を飲んでいました。
目のきらきらした、かわいい赤ちゃんでした。アンジェリカのお姉ちゃん(5歳)がいました。そっくりの、美人でした。母はピケの現場にいるので、離れているわけですが、皆で面倒をみているのでしょう。

車にもどってきても口をきかず外だけみている私に、ベンジが「ムツミ、疲れた?」と声を掛けてくれましたが、焦燥感とみじめさで口がきけませんでした。
どうか、この子どもたちに未来を!

夜にまた、ピケのテントを訪れました。
朝いったときに、手編みのむぎわら帽子をもらったのですが、それがものすごくかわいかったので、「おみやげに」と、もっと作ってくれるように頼んでおいたのです。
ランプの明かりで、せっせと編んでいてくれました。
「日本で、友人たちが、フィリピンの話をききたいって待っていてくれるから、その人たちにぴったりのおみやげが出来てうれしい」と伝えると、みんな手を叩いてよろこんでくれました。
帽子をつくるおばちゃんたちの顔が誇りでいっぱいになって、目に力が入ったのがわかりました。
カンパでなくお買い物という形でお金を渡せたのは、私にとってもうれしいことでした。
暗いテントのなかで、なんとなく明るい気持ちになりました。

実は先住民族に対するこのような迫害は
ここだけの話ではありません。
フィリピン全国に数限りなく起こり、マルコス政権からアキノ、ラモスと変わっても、止むどころか数は増えていっているようなのです。
87年には被害者の数が15,983世帯だったのが、95年には40,384世帯になっているという調査があります。
それだから、フビランさんも、月に何度もマニラに出かけ、会議を繰り返しているのです。「LAND IS LIFE」とプリントされたキャンペーン用のTシャツを、私ももらったことがあります。
自然と一体になり、独自の文化(言葉や儀式)を持って暮らしてきた民族も多いのです。山を降りてしまえば、彼らには本当にいくところがありません。

パグサのある町のすぐ近くでも、フィリピン一高い山アポ山に、三菱の技術で地熱発電所が出来、地中深くにパイプを通したために自然環境に大きな変化が起きています。
移住させられた先住民は、見た目には立派な家をあてがわれて住んでいますが、訪れてみれば、「土曜日に、当局の立ち会いのあるところでしか何も話せない」と、住民は口をきくのにも見張りにおびえていました
。私たちの立ち去った後を追って、「畑もないから、この先どうやって食べていけばいいのかわからない」と訴えにきた女性もいたのです。
そうして立派な発電所から生み出される電気は、貧しい農民の上を素通りして(だってラジオぐらいしか持ってないんですから)、大企業の工場へと流れ、人々には公害しか残らない。

ほかにも、港ができればフィリピンの資源が安くどんどん海外へと流れ、あとには丸裸の山だけが残る、ということが起こる。禿山(はげ山)を指差して「ブツダン」と説明をうけた友人がいます。

70年代に刈りだされた木材は、多くが日本への輸出向けだったのです。その後遺症もあり、フィリピンではどこへいっても禿山ばかりが恐ろしいほど続いています。
木がなくなれば地盤がゆるみ、台風のときに土砂が崩れる。崩れた土砂が海に流れ込んで、魚の住処である珊瑚礁を殺してしまう。魚がとれなくなります。表土が流出した場所では、セラミックのように硬い部分が露出し、もう使い物になりません。

日本がODAをつぎ込んで大事業を行っている地域でも、同じような話がやはり出てきます。
ダム、港、鉱山、発電所。最後まで抵抗した住民を、工事をすすめながらシャベルカーで威嚇して追い出した、という証言をききました。
国の工業化はフィリピンの国の政策で、日本はODAでその後押しをします。あるいは、輸出入銀行や開発銀行などのお金が投資されます。たくさんの場所で日本の企業が仕事を得ます。
大規模な「開発」がされたために農村・漁村を失った人たちが、スラムへと流れ、私たちにも映像でおなじみのあのすさまじい貧困層が形成されるという仕組みが、たしかにあります。
日本に追いつけ追い越せ、と、「発展」「豊かな暮らし」を求める人たちがいる一方で、「今の体制で工業化が進んで外国企業が入ってきても、自分たちの暮らしはよくならない」と、多くの貧しいフィリピン人が思っています。
だからこそ、APECなどの際には、反対のデモが起こるのです。

「アジアは人件費も土地も安いから」と、日本の企業もたくさん出かけていっていて、「フィリピンのひとたちにだって仕事がいるだろう?」と、自分たちが雇用をつくってあげているのだと思っている日本の企業人もたくさんいるでしょうが、その土地が以前はだれのものだったかについて思いを馳せることは少ない。
なぜ人々が失業者になって町をさまよっているのか、考えることはありません。消費者の私たちも、フィリピンからやってくる安いバナナやパイナップルを、何でこんなに安いのかは考えもせずに「貧しい国からきているのだから安くて当たりまえ」と、なんの疑いも持たないのが普通です。
フィリピンはもとから貧しかったのだと、なんとなく納得しているのではないでしょうか。

ミンダナオでは、全農地のうち30%が外国企業のために押さえられていると聞きます。
スミナオの土地からも、遠くのほうに、20年ほど前からデルモンテのプランテーションとして使われている土地が見えました。
いくつかの大企業のプランテーションの労働条件の悪さは有名です。人間は牛のようにトラックに詰め込まれて農場に向かい、長時間労働、深刻な農薬中毒。
フビランさんも、「人間の誇りが保てない状況」と嘆いています。果物やゴム、カカオなど、単一栽培の弊害も当然ながら深刻で、土地がぼろぼろにやせ、次の世代までは土の命がもたないのです。

ほんとうに残念なことですが、経済の自由化の流れの中で、このような傾向はどこの国でも勢いを増しているようです。
激しい国際競争の中で、一銭でも原価を安くあげるために、生産地では、貧しい人たちの足元をみた「買いたたき」「搾取」が起こります。どれだけまじめに働いても、奴隷と同じような条件なので食べていくことも出来ない大人や子ども達。
軍事政権の国なら、土地を守ろうとしたり、状況を変えようとして地域や職場で話し合いを持っただけでも、見せしめのために惨殺され放置されるということが起きています。
めった刺しにされた同僚の死体や、耳や鼻を削り取って拷問のあとをしめす死体、小さな女の子までが強姦されるのを目の当たりにして、おそろしくない人間がいるでしょうか?
あとは機械になって死ぬまで働くしかない。
「形は違うけど、これは多国籍企業のしかけている戦争だよ」と、言い切る人も出てきています。

雑感その1 ベンジくん……(おまけの文章です)

私と同い年の彼は、日本でいえば東大のような超有名な大学(フィリピン大学)を出たあと、さらに法律の有名な学校を4年間終えているエリートくん。
細身の長身、弁護士の卵(彼がフビランさんのあとをついでくれればいいのに、と、みんな心から思っている)。
熊野盛夫さんは最初から「かっこいいあんちゃんやなあ」っていってたけど、へらへらと軽い感じでおしゃべりで、(私のタイプじゃない)って内心思ってた。

でもこのスミナオ族の件での出張中、終始厳しい視線で記録をとり、深夜まで書類を作っている姿は実はかっこよかった(仕事をしている男の人の姿にとても弱い私)。
記者会見の次の日、ベンジが自分の手帳に書きつけて私に見せてくれた日記のような文章のなかにこんな一文があった。

「今日はずっとムツミと組んで記録の仕事をした。僕らにとっては、もう、戦争は遠い昔話のようだ」という一行。

ぎょっとした。私の頭のなかには、太平洋戦争のことなんてなかった。フィリピンでなにが起きたかは、私は少しは知っている方だと思っていたけれど。
フィリピンの人たちの脳みその中では、意識下に埋め込まれた記憶がこんな風に顔を出す。
植民地にされ、何百万人と殺され、土地を焼かれて、そのままほっておかれている。
私たちは、そういう記憶をもってない。
語りつがれているものがない。
踏まれたものと、踏んだものとの、埋められない差なのかもしれないと思った。

 

 

3 マンゴか電気か。そして決めるのは誰?

ミンダナオを出たあとには、いったんマニラに戻り、そこから6時間北へ上がったところにあるマシンロックという場所を訪ねました。ここは、少し前まで、フェアトレードくらぶで扱っている大人気商品ドライマンゴの生産地でした。
マンゴが特産品だったこの海辺の町に大きな火力発電所を作る計画が進み、その抵抗運動をささえる目的もあり、フィリピンのNGOが地元の農家からマンゴを仕入れていたわけです。
しかし発電所はほぼ完成し、本格始動をこの5月に控えています。
反対していた農家も結局は全部立ち退きました。
ここは1人でまわるにはつてがなかったので、日本の学生さんが主体の団体「ASEEDJAPAN」のスタディーツアーに混ぜてもらって、まずは近くの島にわたり、電気や水道のない暮らしを体験!というところから始めました。

フィリピンのNGOの若者のガイドでシュノーケリングをしましたが、
「そこを泳ぐと珊瑚を殺す」
「気をつけて!今珊瑚にさわりそうになったよ」
と、とても細かい指示がきます。
珊瑚が、ひどくデリケートな生き物で、触れただけでも死んでしまうことがあり、しかも一度死んだらもとの大きさに戻るまでに数百年かかる、ということがあるからです。
珊瑚が「魚のすみか」なのだというのは知識では知っていましたが、実際にひらひらと黄色や青に光る熱帯魚が、紫や桃色に発色している珊瑚の森を出入りしている様子はまさに「絵にもかけない」美しさ。
どれだけ見ていても飽きなくて、陸に帰る気がしなくて、ふやふやになってしまいます。
「こんなきれいな世界を今まで知らずにいたなんて!!!くやしい!!」
と言う声が、学生さんの間からもでていました。

陸にあがればあがったで、バナナにココナッツ、マンゴにパパイヤ、カシューナッツ、などなど、普通の家の庭のあちこちになっていて、犬もねこもひよこも人間の子どももいっしょくたにじゃれまわる風景が楽しい!
満月に惹かれて、夜はビーチで寝てみました。寝袋から顔だけ出して、ココナッツの葉がざわざわ揺れるのを聞きながら眠りました。
夜中に目が覚めると、月が沈んでいて、かわりに空いっぱいにあふれてこぼれそうなほどの星が出ていました。
金沢の空も、こことつながっているはずなのに、同じ空だとは思えませんでした。
「あるんだけど、みえないんだよなあ…。」
なんだか損してるよねえ、と思ってしまいます。
水はポンプでくみ上げたり、井戸からくんだりして使います。夜の明かりはランプで。その下で、昔抗日ゲリラだったというおじいさんからお話をききました。
「日本兵にもいい奴が居て、友達をたくさんつくったよ」

島の生活はとてもシンプルで、なにもなかったけれど、はだしで歩いて、マンゴの木の下でハンモックに揺られて、火をおこしてお米を炊いて、泳いで、と、のんびりのんびり、時間が流れていきました。人間と、その他の生き物との距離がすごく近くて、一人でいても寂しくないような気がしました。
島の人の家の中にはお皿が何枚かとスプーン、カップ、お鍋とナイフがいくつか、それに水をくむバケツ。後は、ラジオと、家族の写真、カレンダー。私の旅行用の荷物の方がずっとずっと多いのです。

半農半漁の生活を続けてきたこの島の人たちですが、この島でも、漁獲量が減り、危機感をもった漁民が自主的にネットワークをつくって乱獲監視などの活動をしています。
どんどん減ってきてしまっている珊瑚礁を守るために、保護区域もつくられていました。

珊瑚が減っている理由に、漁のしかたの変化がある、と、説明されました。魚がだんだん少なくなっているため、随分無理な取り方をしているのです。
まず、ダイナマイト漁法。ダイナマイトを海にほうり込み、魚が気絶したところをすくいます。それから、青酸カリ漁法。薬をまき、やはり気絶したところをとります。さらに、「ムロアミ(日本語のまま)」これが、別名ブルドーザー漁法ともよばれる、底ざらいの漁法です。

こんなやり方をしていれば、海洋資源がどんどんへっていくのは当然の結果です。
なぜこんな自分で自分の首をしめるようなことを?
ここでまたひとつ、日本人としては悲しい話を聞かなくてはならないのですが。

日本とフィリピンの間には、73年に日比友好通商航海条約というものが結ばれており、これによって、日本の船は、フィリピンの領海を自由に漁をして廻ることが出来るようになりました。
さらにマルコス大統領によって、外国資本は輸出関税なし、所得税なしという特権を与えられ、台湾籍の船も加わりとりたいだけ魚をとる、おおきなトロール船でやってきて、稚魚まで節操なくさらってしまう、ということが起こり、マグロなどは3年ほどでほどんど獲り尽くされてしまったという話もあります。
零細漁民の手こぎ船では、太刀打ちのしようがありません。
とにかくその日の食べ物を手に入れなくては、という状況の中で、先に書いたような漁法が横行するようになりました。
珊瑚礁は、30年前に比べてもう3%しか残っていないとする調査もあります。

これではいけない!と考えるひとが出て来るのは当たり前の状況です。
でもマルコス政権では、「環境保護」の活動家はことごとく弾圧されていたそうです。
レクチャーしてくれたNGO「ハリボン財団」のかたによると、人々の間をまわり持続可能な資源の使い方を話し合うことで常に逮捕や拷問の危険に身をさらしていたとのこと。

日本でも、少し前まではあったように思います、(今でもそうなのかな)環境とか市民活動とかいってるのってちょっとあやしい……っていう空気が。
「平和」なんていってると公務員になれないとか。
でもフィリピンでは、例えば「鍼(はり)」や「薬草治療」のようなことをひろめようとしただけで、いまだに「共産主義者」とおびえられてしまうという話をききました。
フビランさんのクライアントの牧師さんなどは、貧しい人たちに関わっていたから、ある日帰ってきてみたら教会が壊されていて、「おまえは共産主義者だ」という立て札があったとか。
共産主義って宗教を認めないんじゃなかったっけ?
共産主義が実際なんなのか、ちゃんと分かっている人は(私も含めて)少ないと思いますけど、とにかく、この国では、人間が自分の頭で考えて工夫してその辺の材料で(つまりお金を使わずに)なにかをやるということがもう「アブナイ」ことなのでしょうか?
そうだとしたら、資本主義拝金主義または恐怖政治の威力もここまできたのか、です。

せっかくあんなに果物が豊富な国なのに、お客様にはコカコーラを出す。それが精一杯のおもてなしの気持ちです。
たいていのところでは、コーラとスナック菓子をわざわざ買ってきて出してくれる。
私にしたら、100%のジュースが目の前にあるのに、なんでコーラを飲まなくちゃいけないんだろ~(粉末のオレンジジュースとかもう最悪!)と、歯ぎしりしたいほどもったいないのですが、村の人たちは果物なんてつまらないものだと思っているのかも。
あまりにもそこら中にあるから飽き飽きしてるのもあるのでしょうが。

で、旅の途中から、「ココナッツジュースのほうがよっぽど素晴らしいです」と最初から(コーラを買いにいかれてしまう前に)いうことにしました。
「フィリピンは最高!こんなにおいしいココナッツがそこら中にあるなんて」と、口に出していうようにしました。
そしたらやっぱりだれもが皆喜びます。
「日本人はマクドナルドしか食べないのかと思っていた」と言われた事もあります。
こういうのってやっぱり宣伝の力のものすごさなんでしょうか。
私も生まれは能登の小さな漁港町だから、なんとなくわかります。
自分のもっているものに誇りがもてない。
お金をかけたものあるいはお金を生み出すものにだけ価値を見出すようになっていくんですよね。

話をもどします。
島で2日すごしたあと、マシンロック市にもどり、火力発電所に賛成した市長さんを訪問しました。
市長に対して、学生さんたちもいろいろな質問をしましたが、答えは、「物事を進めるときには、何をするときでもいい面悪い面がでてくる。環境汚染のことにしても、反対住民のことにしても」という話に終始しました。
「あなたたちは、高度に工業化された国から来て、いい服をきて、お金をもっていて、便利な生活をしている。この国をみてどう思いますか。本当に、電気のない生活にもどりたいと思うのですか。」
個人的には、こういう話になってしまうと問題のすり替えだなあと思いながら聞いていました。
払うと約束した住民への補償金を、5分の1しか払っていなかったり、反対住民を軍隊を使っておどしたりしていることがまず問題(というか犯罪)でしょう。
それでも、この市長さんからの問いは、頭には残りました。

マンゴの豊かだったこの土地も、こんなに大きな発電所が出来てしまえばもう半永久的に運命が変わったといえます。
この先どのような変化がこの町にやってくるのか。
反対していた住民は「乞食が増えた」「生活していけなくなった」といい、市長は「安い電力が入るようになりどんどん工業化されて雇用がふえる」といいます。
どちらにしても、今住んでいる住民だけではなくて、他のこの先数世代にわたって生まれてくる人たちの生活にも大きな変化を生むことです。

土地や海は、もうもとの姿ではありません。失敗だった、ということになったとしても、後戻りは当分できない話です。
そのことを考えると、「工業化」……「便利な」生活というのは、なんと大きな犠牲をはらうものなのかと思います。
あの夢のような珊瑚や、深い森、おだやかな時間や、命とのふれあいと、永遠にさようならをしてはじめて手に入るものなのだという深い深い喪失感は、今までもったことのないものでした。
日本ではあんまりアウトドアな人間ではなかったので、(それと、物心ついたころにはもう割とどこもかしこもコンクリートに囲まれていた世代でもあり)「国栄えて山河なし」などと聞いていても実感は迫ってきていなかったのですね。

私にも、大怪我をした人と一緒に血だらけになってヒマラヤの山のなかで一晩動けずに朝を待った経験がありますし、電圧の定まらないバンコクでパソコンを叩いて泣きながら仕事をしたこともあるので、電気のないおそろしさ、不便さはそれなりにわかります。
2、3日島で遊んで面白かったからといって「自然が一番!」などと叫ぶつもりもない。
それでも、私たちの国は、この高度な工業化社会は、やっぱりどこかで道を間違えたのではないか、という思いが、フィリピンを旅するたび強まります。
それがどこなのかは、どんどん分からなくなっていくのですが。

マシンロックでは、発電所の中にも入れてもらいましたが、カメラ絶対禁止の厳戒体制でしたので、映像を持ち帰ることはできませんでした。
とにかく巨大でした。
中にはいってみて、私は、象にふまれている単細胞生物という気分でした。
日本のJICAが立地調査をし、アジア開発銀行から2億ドル、日本輸出入銀行から1億5000万ドルの資金を受け、日本の会社「電源開発」がコンサルタントを、三菱が建設を請け負っているプロジェクトです。
この5月から、本格稼動です。事務棟のなかは、がんがんにクーラーがかかっていました。

ふう、と、ため息がでました。
赤と白の縞縞の、雲をつくような煙突が圧倒的な迫力でした。
マンゴか、電気か?開発か、自然保護か?
そんなことは、おまえのような小さな小さな無力な人間の考えることじゃないんだ、と言われている気がしました。
私などがどれだけ考えようと、お構いなしに世界は動くし、人は死に、電気は流れる。

「電源開発」の技師のひとからお話をきかせてもらいました。
とても丁寧に、ひとつひとつの質問に対して答えてくださる優しい方で、こちらも、技術に関すること以外にも思うことを何でも聞いてみました。

「日本よりも環境に関する規制がゆるいが、まだ産業がさかんじゃないから、日本と同じような規制は今はまだ必要ない」
「反対する人がいるからといっていては、何ひとつ新しいことはできない」
「私たちの仕事は、技術の提供であり、それ以前の人権侵害のことについては、あってはいけないとはもちろん思うが、私たちには関係のないことです」

特に最後の答えに関しては、これだけ巨大なプロジェクトになれば、技師の方のお立場にしたらそうだろうなと思う一方で、じゃあだれが住民の声をきくのかなあという思いは残ります。

半年ほど前、金沢で県庁の方とこんなようなお話を(雑談でですが)していたときに、
「まあね企業のほうも何万人にも給料を払っていかなくちゃいけないからねえ、人ひとりくらいは死んでても構ってられないだろうねえ」
と言われて、そういうことなんだよねえと感じたのを覚えています。
お金儲けの世界はきびしい。
私たちは、そういう厳しい世界に生きているということ。
なりふりかまわずやらなくちゃ、今の生活が守れない。
そういう社会で、命の基準がどんどんずれていってしまう。
私も学生時代にはバイト先で3年間もハンバーガーを馬鹿みたいにまじめに計って3分経ったら廃棄してた。30秒でも過ぎてたらダメ。
それがお客様への誠実だと信じてたから。
1個のハンバーガーごとに10㎡の原生林を焼くと知らずに。
でも、たとえ知っていても止めていたかどうか?
森が大事なんて思ってなかったし、そこに人が住んでるなんて想像もしてなかったし、洋服を買うのに時給680円が欲しかったから。

マンゴ農家の人に、「日本人のお金なのですから日本人でこんな計画はとめてください」と言われたとき、正直いって「そんなこといわれたって」と思った。
私に何が出来るっていうの?自分は関係ない!って思いたい。
それは、発電所の技師さんも同じ。
たぶん三菱の社員の人も責任のある立場の人たちも同じ。フィリピンの軍隊も警察も同じ。仕事だからやってるだけ。

それでは誰ならばこの数限りない悲惨な人権侵害の状況にストップをかけられるのか。
ほんとは、誰にもどうにもならないということではないと思います。
フビランさんが話してくれたミンダナオのアポ山のケースでは、結果的には発電所は出来てしまったにせよ、世界銀行と日本輸出入銀行は、現地調査での激しい反対の声を聞いて融資を白紙に戻しているのです。
例えば、私たち自身のことを考えたときに、時計を1個買うにしても、それが強盗品だとわかっていて買えば、買う側に責任がないとはいえないですよね。
それが、これだけ大きな仕事になったときに、現実には「あってはいけないこと」がなぜか止められないことがある。
なぜ反対住民が変死するようなことが起こるのか。
なぜ住民が恐怖で口をつぐむようなことが起こるのか。
人間のモラルは、誰が、どこで働かせるべきものなのでしょうか?

 

 

4 力を!米を!医者を! アンチ・マニラのコミュニティ・トレード

話はがらがらっと変わって…
皆さんはもうバランゴンバナナをご存知なんでしょうか?
私が去年幼稚園の仕事をやめてフェアトレードくらぶの専従になったときに、
「むつみせんせいはバナナやさんになったんだよね」
と子ども達は納得していたそうなのですが、それくらい印象の強い商品です。
実際に、うちのくらぶでの売上の3分の1を占めるのがこのバナナ。
この大人気フェアトレードバナナの生産地をどうしても見たい、というのが、今回の旅の大きな目的のひとつでした。
それというのも、この団体をはじめてから、私の頭の中には「フェアって、何?」 という問いがいつもあったのです。

フェアトレードという言葉は、特に日本ではまだ新しいので、使う人によって意味が違うようですが、簡単には「貧困層の人との取り引き(貿易)のなかで、正当な対価を払うことによって、自立を助ける」と紹介されていて、新しい形の国際貢献という位置づけで注目されています。
くらぶでは、多くは東京のフェアトレードの会社を通じて約15カ国からの品物を扱っています。

フェアトレードは楽しいです。
無農薬でおいしいバナナ、エスニックでかわいい民芸品、などをこちらも喜んで買い、これで誰かのためになっていると感じてまたしみじみと喜ぶことができます。
作る人・買う人・地球環境にも優しい品物で、搾取や人権侵害がない背景に安心して買い物ができるのなら、それは買う側にも「救い」のようなものです。

そういう説明をお客様にくりかえししていながら、私自身は、いつも、フェアってどういうことかなあと分からなくなっているのです。

たとえば「公平な取引価格」つまり相手が働いたぶんちゃんと払う、ということですが、いくら払えば公平なのか?
第三世界でたびたび問題にされるような「原価割れ」での買いたたきでないことはもちろん確かですが、日本の基準と同じでないこともまた事実。フェアっていっても、生産者のひとが私たちと同じ生活(つまり冷蔵庫やパソコンを買って海外旅行にいけるような)が出来るほど払うわけではないです。
バナナの会社オルタトレードでは、
「1日3食食べられること」
「子どもが全員高校までいけること」
「1年に1度新しい服が買えること」
という目標を立て、それを数年かけて達成しています。
それはとても嬉しいことですが、じゃあその先は?1年に2着服が…というふうに増やしていく、ということでもないとも思いますし。どこまで行けばフェアなのか。

もうひとつは、いくら「フェア」であるといっても、第三世界の人たちが作り、私たちがそれを消費する、という仕組み自体はほかの貿易と同じなわけで、結局よその国の資源を頂いて食べてぜいたくに暮らすことには変わりがない。それでいてフェアだなんていっていてもいいのかな?
その辺がなにかわかってくるかなあという気持ちでした。

さて。
バナナ山を求めて行った先はパナイ島。(島が変わるたびに‘おはよう’から新しく覚えなくちゃいけなくてもう大変。フィリピンが、千の言葉を持つ国、と呼ばれるゆえんです。)
ここでは、日本の会社オルター・トレード・ジャパン、フィリピンネグロス島(バランゴンバナナ貿易を最初にはじめたところ)のオルタートレード社、そして現地のパナイフェアトレード社からそれぞれ数人の社員の人が一緒に行う調査旅行に無理をいって混ぜてもらって、ついてまわりました。
この地域からやってくるバナナの日本に着いたときの状態が悪く、8%ほどもロスになってしまうので、その原因を探すのが皆さんの目的です。

いくつもの村をジープでまわりました。山道がすごくて、砂がはいらないようにみんなスカーフでしっかり頭や顔を防備。川も渡るし、傾斜30度はあるんじゃないかという道を上り下り。足元においといた荷物がごろごろ車内を転がります。
車から降りてもしばらくは胃がわわわーと動いている感じ。きゃあきゃあいう私の横で、「パナイは道がいいなあ」と喜んでいるオルタのみなさん。ネグロスはもっとひどいそうで。

いく先々で、生産者とのミーティングが持たれました。
初めの村では、竹で作った天井だけの集会所?でのミーティングでした。
柱に、メスの鹿(たぶん鹿なんだと思うけどすごく背が低い)がつながれていて、その足元を、生まれたばかりの子鹿がよちよちと歩いていました。私はミーティングを記録するふりをしてバンビちゃんをカメラに収めてにんまり。

どこへいっても、生き物がたくさんでした。犬や猫、鶏にひよこ。ヤギ、ブタ、水牛。
舗装されてない道路の上を、人間の子どもも子犬と一緒に転げまわって遊んでいて、その中でミーティング。
日本で例えば犬がミーティング会場に入ってきたらそれだけで珍事でしょう?
村のこの生き物のごちゃごちゃさが、なんだか愉快でたまりませんでした。

生産者の方から出た質問の中で一番多かったのが、
「なぜバナナの大きさや熟度にそんなにこだわるのか」というものでした。
その質問に対して、中嶋さんや、ネグロスのオルタトレードのスタッフ、マリリン(私と1つ違いの、かわいい女性)が、
「バナナは箱づめされたあと、船にのってマニラに行って、そのあと積み替えをして東京にいって…」
という風に図を書いて説明し、それを聞いて生産者のほうも
「そんなに日にちがかかるのか」「だから青いうちに出荷するのか」
と、(これでようやく納得がいった)というようにうなづいていたのが印象的でした。

「日本人は熟してもいない固い青いバナナをわざわざ食べるのか?と、不思議だったんだ」
という人もいるのを聞いたときは、「そんなわけないでしょ」と私は笑ってしまったのですが、でも、なんでそんなとんちんかんな疑問がでてくるかは、1日見ていただけでわかりました。
TVがない家、新聞を読まない家がたぶん圧倒的多数だし、日本といってもどれくらい遠いのか、見当もつかない人もいるかもしれない。島から一生出ることもない人だっているんじゃないかな。
それに、バナナに関しても、場所によっては
「日本人がバランゴンバナナ買うんだって」「無農薬で作ってるのがいいんだって」
と、情報が村ひとつひとつ廻って口伝えでなんとなく届くところから始まるのだろうし。
「日本人が来てるよ」と珍しがるよりも「日本って…?」という感じでいる人が多かったようにも感じました。

刈り取りの日(月に2回ある)には、前の晩から生産者の家に泊めてもらい、朝もずっとついて歩きました。
バランゴンは山間部を好んで生えるとは聞いていましたが、これがほんとに山なんですよ。はうようにして登った所もありました。
「こんなとこほんとにバナナ担いで歩くの?お願い違うっていって!信じられない!」
とぶつぶついいながら歩きました。
農民たちは足の作りが違うようで、足の裏が地面に吸い付いてるみたい。
そうでなきゃ絶対にあんな所を物を担いで歩けない!しかも、ぼうぼうにいろんなものの生えた山「の中を、熟度のちょうどいいバナナを捜して歩き回るのです。
まとめて植えといてよ!とこちらが叫びたくなるほどあちこち歩きました。
この点に関しては、離して植えるようにとアドバイスされているようです。ネグロス島で以前にバナナばかりたくさん植え付けすぎて、大病害を引き起こしたことのある苦い経験からです。
単一栽培はそれほど土地に無理をかけるということです。

人によっては集荷場まで10キロ以上歩く人もいました。
傷や熟度をチェックして、パスしたものだけが現金と引き換えになります。
ロスになった分は、「ブタのえさ」(知ってました?バランゴンバナナはフィリピンではブタのえさなんです!甘酸っぱいのが日本人好みでいいのですが、向こうの人はもっとベタベタに甘いだけのバナナの方が好きなんだって。
ちなみに、フィリピンのひとが食べないバナナだから、というのが、バランゴンを輸入することに決めた理由でもあるそうです。(地元フィリピンのバナナ市場に影響を与えないように、と。)

パッキングセンターがまた壮観でした。
ジープからおろして箱詰めまで、全部で15の手順を踏みます。
品質チェック・2度洗い・軸の乾燥・虫のチェック・などなど。軸から出る樹液が追熟を進めてしまうので、防腐剤を使わない以上はここを良く洗い、しっかり乾燥させることが大事です。
どうもここのセンターの水洗いのしかたが甘い、あんなちょろちょろ水を使っててもだめだ、
ちゃんと流水で洗わないのがロスの出る原因では?とオルタの皆さんの目も真剣。
「流水で洗うとポリバケツから水があふれてくるから困る」
「じゃあ下に排水口のついたポリバケツを買えばいいじゃないか」
「そのお金はどこが出すんだ」
という風に、これまたひとつひとつ話し合いを進めていっていました。

第一便が港に向けて出発したのは、夜の11時に近かったと思います。
トラックが屋根までバナナで一杯になったので、私たちはボンネットや屋根のはしっこに乗りました。星が溢れてきそうな空を見ながら、はあ~とため息がでました。
今まで「小農民が自然にさからわず無農薬で作るバナナを買って、彼らの暮らしを支える新しい国際協力で~す」といってきたあの売り文句の中身は、こういうことだったのかと。
自然に逆わらない、とか、貧困層の人達の暮らしを支えるとか、一行に収まってしまうこの短い言葉の中身が、こんなに大変なことだったとは…全く。

刈り取りから港の冷蔵コンテナに積み込むまでのタイムリミットは、オルタの場合36時間です。
それ以上かかると、熱帯性の気候のなかで追熟が進んでしまうからです。
多国籍企業が関わってやっている大農園では、24時間以内に積み込みをするそうです。
ひろいひろい敷地に、一列にバナナだけ植えて、労働者だって農場の中に住まわせてるとこもあるし、専用の道路で港まで運ぶところだってあるそうな。
農薬なんてヘリコプターで空からかけちゃうのです。
バナナにも、労働者にも、河にも土にも。
そんなところと、この手作り手運びバナナの貿易との「生産効率」を比べて考えてみて、思わずため息が出てしまったのです。

以前、「雨が降ったので収穫量が落ちてしまいました」と断られ、バナナの仕入が予定の日に出来なかった月がありました。
そのときは、購入者の方達へのお知らせ・お詫びなど対応に追われ、私もいらいらして,「なんで雨ぐらいで?」と、少し納得いきませんでした。
でも、今ならわかります。
あの道じゃあ、少し雨がふれば歩けなくなるだろうな。あのトラックじゃ、泥道は走らないだろうな。

だいたいこんな電話もないところで、なにか連絡事項があったら生産者にはどうやって知らせるんだろう?ミーティングの招集かけるときなんかは??
聞いたら、「伝令係がいる」んだって。
若い人が、山から山へと駆け巡って知らせて歩くらしい。

そんな不便さゆえか、私たちがチャーターしたジープで走っていると、いろんなひとが道端に現れて勝手にジープに乗り込んできて、降りたい所で降ろしてもらっていて、お金を払うでもなくお礼の挨拶もなし。
私は「これってどういうシステム?」と興味津々でみていたのですが、たぶん別になんのシステムというわけでなく
「道を歩いていたら」「車が同方向へ走っているので」「乗せてもらう」
ただそれだけ、ということのようです。
不便さが、人と人との距離を短くする、ということは、確かにあると思います。
それは、不便な国にいくたび思うことだったのですが、このド田舎に来てそれは感動的なほどでした。
毎晩生産者達と飲み会だったのですが、 誰がどの家族なのかわからないくらい入り交じって遅くまで飲みました。
子ども達も、常に複数でごろごろとじゃれて遊んでいました。

バナナの山から降りてきたときに見た河の風景は、一生忘れられないでしょう。
美しくて冷たい流れのなかに次々と歓声をあげて飛び込む子ども達。友達の肩に乗って宙返りをしたりと、自在に泳ぎ回り、その横に悠々と水浴びをする水牛、洗濯や水浴びをしながら見守る母たち。
人間同士だけでなく他の命…草や魚、水も合わせて、お互いの命がとても近いという気がしました。

私もカメラを置いて、服のまま泳ぎました。フィリピンのスタッフは笑っていたけど、そうせずにはいられないほど、楽しそうだったのです。
うまく言葉にならないのですが、日本にいて全く意識しなかったいろんな生き物の命の気配を、身近に感じてそれに取り囲まれているという気がしました。
足元の雑草からも命が沸き上がってきそうな、そんなわくわくするような迫力がありました。
自分が他の命に囲まれて生きているんだというようなことをなぜかここで深く実感していました。

「日本では何でも機械がやってくれるんだってね」
そうだね、私たちはリッチだよ、用事は電話で済むし、テレビなんか家には3台あるんだよ。
「3台も?」でも家族で別々にみてるから。みんな忙しいし。
例えば隣の家の人が病気でも気づかないしね。名前も知らないし。
「ふーん、それは寂しいね、ここじゃ毎晩皆でしゃべってるからね。テレビがあると楽しいと思ったんだけど」

ああそういうことなんだな、とつくづく思いました。
土地を取り上げ、飛行機で農薬をまき、労働者も一個所に住まわせてつくる大農場産のものは当然コストがぐっと安くなります。
何種類も薬を施して、見た目にきれいな食べ物が日本に届くけれども、農園では農薬中毒で肺や皮膚がただれ働けなくなる人が沢山出ることになる。
給料が安いから、子どもが栄養失調で死ぬことがある。ぎりぎりまで人件費が削られていき「人間の尊厳が保てない」。
そういう物に比べて、質素でも陽気な命にあふれる村で手作りされるこのバナナがおいしいのは、たぶんとても当たり前のことだったんです。

もともとこのバランゴンバナナの交易は、「砂糖の島」ネグロス島で、砂糖の国際価格暴落による大量失業→飢餓が起こったときに日本で行動をおこした「ネグロスキャンペーン委員会」という市民団体が始めたものです。
天候に異変がなく、農地もあり、耕す人手もいくらでもあるのに、飢餓が起こる不思議。
土地は、この島では、外国に売る砂糖を植える場所であって、人々の生きる場所ではないからです。
何万もの子どもの命が死に瀕しました。
資金や食料の援助ではこの惨状を変えられない、と考えるようになった日本とフィリピンの人達で、バナナなどの‘民衆交易’が始まったそうです。

作る側と消費する側との絶対的な不公平は、とても醜いものだと思います。
あれは10年以上も前でしたか、エチオピアで大飢餓がおこったときに、枯れ木のようになった人達がぱたぱたと死んでいくのがテレビでも写真でも世界中で紹介されましたが、その死んでいく人々のすぐ横で輸出用の牛はえさをもりもり食べて太っていたことは私は知らなかった。
知ってとてもショックでした。
日本の私たちの豊かさとは結局そういう種類のもので、他人の犠牲なしには成り立たない仕組みです。

ネグロスも、その島土の豊かさゆえに、長年にわたって砂糖を外国のために作る苦しさを味わわされてきました。
農園内に住む労働者たちは、住居のまわりのわずかな地面にトウモロコシ1本植えることすら許されなかった、と、本で読んだことがあります。食べ物が買えないほど安い賃金なのに…。
子どもが病気にでもなれば、地主から高利で借金をするより他になく、それを返すために次の年もそこで働き…というように、何世代にもわたって奴隷状態でぎりぎりのところで働いてきました。砂糖労働者の子どもが、ケーキを食べるのが夢、なんて、ほんとうに醜い話です。
人口でいえば一握り(2%)の地主たちだけがすごいお金持ちになっていく仕組みに、砂糖労働者たちも組織をつくって対抗し自分達の命を守ろうとしてきましたが、それに対するマルコス・アキノ政権からの弾圧は、アムネスティの報告やその他いろいろ書かれたものを読んでいても身の毛がよだつほど恐ろしいものでした。
日本の政府が、マルコス政権の大友人であったことを考えると、私たちにとってもしんどい話です。

そういう背景を思うとき、農民が、自分達の土地で、自分達の手でバナナをつくり、輸出し、その利益で暮らしを良くしていくこの交易の意義は本当にすごいと思うのですが、現地では、あらあらら、と思うこともありました。
一つには、「暮らしをよくする」ことの中身がとても難しい。「せっかく苦労してバナナで得た現金を、賭け事に使ってしまう」人もいるそうな。
ある村では、バナナ生産者組合の活動費としてパナイフェアトレード社からもらっていた分のお金がどこかへいってしまって、その問題が解決するまでは活動費の支給はストップされて暗いミーティングをしていました。
「バナナを買えばフィリピンの人達の暮らしが良くなる」という単純なものではないのですよね、当たり前かもしれませんが。

この交易では、バナナ1kgにつき15円の「自立資金」が含まれています。
この資金でさまざまな公益になるプロジェクトを行っています。
共用のトラック・農業研修・たい肥作りのプロジェクトその他いろいろ。
最後の日に訪れた村には潅漑がととのっていて、田んぼに青々と米が実っていました。
朝日のなかでそれはとても美しい光景でした。
他の東南アジアの国と同じく、フィリピンも全国的にひどい干ばつ(エルニーニョだといわれていますが)の影響をうけていて、私もそれまで干上がっている田んぼしか見ていなかったので、
ほっとしました。干ばつは、各地で死者が出ているほどの猛威をふるっていて、バナナも立ち枯れしたものを何本か見ていただけに、「みんな水さえひければ・・・・」との思いが募ります。

自立資金でのプロジェクトのことは、情報だけは資料で読んで知っていましたが、このひとつひとつが、あるとないとでは農村の生活はこんなにも大きく違ってくるのですね。
(世界銀行が、東南アジアの潅漑事業に対して行う投資は、年を追って少なくなっていっているそうです。援助をいうなら、発電所よりもダムよりも、潅漑をやってくれないかなあ。)
自立資金を使って良いプロジェクトを成功させるには、強い理念とリーダーシップを持った住民の代表の存在が欠かせないと思います。
住民が希望するプロジェクト全てにお金が出るわけではなく、取捨選択が行われます。結果、自立資金は、その恩恵を受ける地域とそうでない地域が出て来るということになります。
そういうのは、不公平にはならないのかな?
お金を何に使うかそこまで消費者側は口を出せるものなのだろうか。いろいろ考えました。

今回は結論として、バナナで上がった利益があるならそれはやはり公益のために使ってほしい、というのが私の気持ちだ、ということになりました。
一人一人の収入が向上して、それぞれの生き方の選択肢が広がることも大事なことなのでしょうが、
ある程度個人の生活の基盤ができたら今度は地域全体の「公益」を考えてくれたらいいな、と。
つまり、「フェアなトレード」を通じて利益が上がってきた分で「今日はどこの店に飲みにいこうか」となるよりも、「生産者同士困ったときには利用できる低利のローン」だとか、「農業技術向上のための研修会」だとかの、コミュニティー全体の地力をアップする方向にお金をつぎ込んで欲しい。
そういうことの出来る団体をこそ、私も誇りを持って応援していきたいのです。

フェアトレードくらぶ金沢を始めたばかりのころは、あまりいろいろ考えていなくて、とにかく「フェアトレードの商品」を売りさえすれば世界は少しずつでもいい方に変わっていくのだと思っていました。
でも、旅行記1~3で読んで頂いたようないろいろな現実…
例えば電気がある暮らしが本当にいいのかという問いや、先住民や弱いものの立場のあまりの脆さ、そういうもろもろのものを私なりに考え合わせて、じゃあどっちへ向かうのが「いい方」なのか、と考えたときに、やはりお金さえはいれば良いというものではない、と感じるのです。

今回は、バナナの村のあとに、さらに飛行機でもうひとつ、ルソン島でかごなどをフェアトレードを通じて輸出している港町へも行ってみたのですよ。
日本ではグローバルヴィレッジという団体、イギリスのオクスファムや、有名どころではボディショップも、この町から品物を仕入れています。
くらぶでも、その1に書いた「バレンタインキャンペーン」のときに、ここのバッグにいれたチョコを売って好評でした。小さい町のどこへいっても、皆がせっせとかごを編んでいる風景がありました。

マニラからバスで12時間かかる、そしてやっぱり電話線もきていない町で、海をわたるオーダーをこなしているということだけでも感動なのに、この生産者団体では、貧しい子どもでもごくわずかのお金で入ることのできる幼稚園を経営しています。
さらに、卒業して公立の学校に進んだ子ども達でも、鉛筆やかばんの支給を受け、必要があれば毎日の昼ご飯も食べにこれます。
おかげで、栄養状態の悪い子はいても、栄養失調まではいかないそうです。
その他、低所得者のための無料住宅サービスや、組合員ならツケのきく小さなお店を経営しています。

「売上で今一番したいこと?町に自分達で医者を雇いたい。政府はやってくれないからね。この前も運ばれる途中で手後れになった人がいたし。給食サービスは絶対続けていきたい。グローバルヴィレッジは、注文量はそんなに多くないけど、毎年必ず注文をくれるから嬉しい。日本が注文がずっと出してくれればと祈ってる」
外国からデザイナーが来て皆で研修を受けたりして、手工芸品のレベルは年を追って上がってきており、今年はマニラでのショウに出品し、国内での大口の注文をとりつけて張り切っているところでした。

ちょうど幼稚園の卒園式に出席することができました。
グローバルヴィレッジ代表(!)で挨拶を、と頼まれ、式の最初にこう挨拶しました。
「いつもすてきな商品をありがとう。どんな人達が作っているのか知りたくて来ました。大切なこどもたちの健康な成長を、これからも私たちのオーダーで支えていけるなら、それはとても誇らしいことです。」
まずい英語でも、皆さんとても喜んでくれて、拍手と握手をたくさん頂きました。

ある生産者のリーダーの家で、私もかご作りに挑戦しながら、お母さん達といろいろ話をしました。
「手工芸品の仕事があることで何が一番いいかっていうとね…旦那に仕事がないときでも、うちにいて現金収入が得られること。学校にいけない若い子達も、マニラにいかなくてもすむようになった」
「マニラに行かなくてすむ」
このことは本当に大きなポイントなのです。田舎の生活が壊されてしまって、土地や生業を失ってマニラに流れていく人達は、行く所がなければゴミ捨て場に住みついたりしています。
山道を軽々と歩いていた人間の足が、アスファルトの上だと具合が悪いです。その日の糧を探して、目を刺すような刺激臭のなかゴミの山に登る人達。道にうずくまり物を乞う人。
治安が極端に悪く、タクシーが通ってくれない地域もあります。

高層ビル街や巨大モールを歩けば日本にいるのと全く変わらない光景なので、一歩外に出たときの乞食の子どもの姿がなおつらいのです。
カルカッタ・タイ・マニラと、それぞれに悪名高いスラムを見る機会がいままでもあったけれど、写真を一枚ももっていません。
どうしても撮れないのです。

路上生活をしている子ども達の作った歌を知人が見せてくれました。

なぜここにいるのだろう
ほおっておかれて
無視されて
冷たいセメントの上で震えてる
この苦しさをわかって欲しい
私たちはゴミじゃない
あなたと同じ人間です

私たちがフェアトレードのお茶やコーヒーや工芸品を楽しむことは、贅沢の延長線上の行為でしかないのかもしれない。
それでも、それで村の伝統的な生活を守ることができるなら、そのことの意義は本当に大きいのも確かです。
守りたいものは、まず、人間らしく生きていくことの出来る環境です。
作っていきたいものは、簡単に踏み潰されることのないコミュニィーとしての底力です。
どう生きるのがいいのか、なにがフェアなのかという議論は、基本的な人権が保障されているコミュニティーがあってはじめて出来ることではないでしょうか。

世の中どれだけ公平になっていけるのかわからない。
逆に自由化の嵐が吹き荒れている今、競争はますます苛酷になっていくのかもしれない。所詮、弱肉強食なのかもしれない。
人間の欲には、歯止めなどかからないのかもしれない。
それでも、世の中にあまり血や涙が流れない方がいい、みんなが幸せに生きていける道があるならその方がいい、と願う気持ちを誰もが持っていることもまたひとつ真実だと思うし、どこまでやれるのかやってみたって別にいいじゃない、あきらめなくったって、なんとなくこっちかなという方向で、迷いつつ考えつつこれからもフェアトレードには関わっていくことになるでしょう。

「人々が貧しいのは、私たちが分け合わないからです」
とは、故マザーテレサのおっしゃった言葉。
「怠け者だから」「頭が悪いから」
「運が悪いから」「フィリピン人だから」
そういうことが貧しさの原因なのではない。
彼らが食べられなった分だれかが食べている。
その根っこのところを間違えず、自分の生活のなかからひとつづつ「フェアにいきたい」気もちを形にしていけるなら、その心地よさを楽しんで生きていけると思うのです。

もうひとついえば、「フェア」でありたいと願うことはまず自分の生活を作り変えて行くことにつながると思います。
そうしてそれはちょっと恐いことのように思えるときがあるのですが、「与えなさい、傷むまで」というマザーの言葉が示すように、フェアに生きることの本当の「心地よさ」を体感したかったら、いままでの贅沢や物とお金に縛られた価値観をひとつづつ捨てる勇気は不可欠で、でもその結果はこんなにもお気楽で楽しい生き方だったのね、と、その自由さに確信が持てたことは、今回の旅行の一番の収穫でした。

前回たったひとりで、1人の知りあいも持たずに訪ねたフィリピンを、2年後にこんなに豊かな(そう、ただ飯ただ酒のやたら多い1ヶ月でした)旅行ができたのは、ひとえにこの一年間の金沢のみなさんのお仕事のおかげ。
申し訳ないほどでした。この場をかりて、心からの感謝を。次回は是非一緒にいきましょう!

これでやっと終わりです。
読んでくれてありがとう!ありがとう!!
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